2024/11/27
127右半身初期健康詩集⑬
㉔勤行の周辺(午前)
排泄が終わり、
体を清め、
尿瓶の尿を捨て、
いよいよこれから、
午前中の勤行を行う。
時刻は大体10時半から、
40分くらいの勤行を行う。
そしてそのまま昼食に向かうか、
そしてそのままリハビリの先生に捕まる。
1週間に3回のリハビリは、
僕にとって希望の光で、
僕にとって廻旋の点検で、
僕にとって痛くなければ楽しい時間だ。
リハビリの締めは、
これから食事をしようと言う他の患者の前で、
二足歩行を行う大事なひと時だ。
二足歩行を行う大事なデモンストレーションだ。
皆は昼食を待ち、
僕はその前菜を待っている。
傍若無人なリハビリの先生も、
お祈りの時間だけは優先してくれる。
勤行中、
他の入院患者の面会も多く、
以前はだからと言って念誦のボリュームを、
落とす訳にも行かないので、
そのまま念誦をしていたが、
金剛念誦の存在を知ってから、
なるべくこの念誦を行なっている。
ただ、
このコロナの時代に、
距離にして1mも無い隣人のベッドで、
家族の面会は行われ、
隔てる物は一枚のカーテンでは心許ない。
そこでマスクをして念誦をするが、
今度はマスクで息苦しい。
従ってその時は小さい声で、
蓮華念誦を行う。
面会時間は20分と決まっているようだが、
人数、
面会の回数は様々で、
僕はコロナの恐怖に怯えながら、
念誦を進める。
面会をする人達から見れば、
一家の大黒柱、
或いは、
一家の大黒柱だった人との、
貴重な水入らずの面会の時間なのだから、
少しは静かにして欲しいと思うのろうが、
そこは相部屋の悲しさ、
僕も仏様との勤行を辞める訳には行かない。
勤行の時間は午前10時半と午後2時半、
どちらも1時間、
そこを避けて貰ったら済む話だ。
僕はなるべく聞かない様にしているが、
自ずと聞こえる家庭の事情。
勿論ここには書かないが、
この施設の悪口を言うのは辞めないか?
あなた方は一刻も早くここを出たいのだろうが、
僕や後数名の隣人は、
そう簡単に出ることが出来ない障害者。
僕は何故だか昔からこうゆう事に愛着が強く、
自分のいるところを馬鹿にされると、
何故か無性に怒りが湧いてくる。
曰く食事が不味い、
曰く認知患者が多い、
曰く風呂が汚ない、
曰く職員の対応が遅い、
云々云々、
それならここは自由の国日本、
どこか別を探したらどうであろうか?
と思うのである。
仏教に帰依し、
毎日十善戒を唱えているので、
身口意に露わにする事はしないが残念だ。
感謝の気持ちを優先したいものである。
㉕勤行の風景
僕が以前に書いたとおり、
勤行の風景は毎回違う。
一つ一つの真言、お経には、
違う風景があり、
或いは下手すれば、
100遍唱えなければいけない真言を、
お茶で口を湿らす為に2回に分けた、
その前後ですら風景は違う。
この風景と言うか、
唱え方と言うか、
それは偉いお坊さんは毎回常に、
同じ様に唱える物なのだろうか?
それとも偉いお坊さんも、
同じ思いを持っているのか?
景色とは、
まず言葉一つ一つの微妙な声調で、
また言葉一つ一つの一寸一寸の長さである。
そして或いは、口の中のトラブルか、
或いは口の中の湿度に起因する、
微妙な言い回しの違いである。
一遍一遍もまた違うのだろう。
それは君、
景色が毎日違う様に、
口から出る真言が日々違うのだ。
或いはこの事を悟る為に、
僕たちは勤行しているのかもしれない。
毎日同じ文言を自らの無常の日々に、
鏡に映し出す為に、
僕たちは勤行しているのかもしれない。
毎日毎日の人生は、
一コマも、
一瞬も、
一刹那も、
同じ物は無いのだ。
そう思うと、
なるほど人間は、
錯覚に長けた生物である。
合掌
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