茶の木

 

❺茶の木かな

❼美味い不味いと

❻茶会の宴(園)

❼田煎茶漬

❼発酵彼岸

 

❺チャノキカナ

❼ウマイマズイト

❻チャカイノエン

❼タヨリチャヅケル

❼ハッコウヒガン

 

知らなかった事を正直に書きます。

お茶の葉とはつまるところ、

インドのアッサム茶と、

中国茶しかなかった。

お茶そのものの種類は少なく、

お茶の多様性は製法と発酵にあったのだ。

その観点から見れば、

日本のお茶は発酵しないお茶で、

中国のお茶は発酵茶で、

欧米の紅茶は最大発酵茶だったわけだ。

僕等は余りにもお茶を勉強せず、

美味しい不味いと論じ過ぎた様だ。

そして日本には永谷宗円さんと言う、

立派な善行人が居て、

宇治の稲田、

宇治の煎茶、

日本人の煎茶、

そしてその子孫が、

日本人の茶漬け、

日本人のフリーズドライを、

作り出した。

僕はこのお茶漬けに、

どれだけお世話になったか知らない。

お茶漬けに生卵をトッピングするのが好きだ。

 

この永谷さんが日本で善行を積む少し後、

植民地アメリカでは、

有名な茶会が開かれていた。

彼等は発酵茶をボストン港に沈めて、

イギリスへの不満を爆発させていた。

港に発酵茶を投げ入れ、

ボストン港は紅茶のお茶漬けとなっていた。

彼等はアメリカの🇺🇸独立を願った。

 

お茶とは不思議な飲み物である。

正直言ってお茶は🍵

何を好んでこれを飲むのか、

分からない時がある。

でも1つの動機として、

生水を飲むのならお茶だと言う時は多い。

何も無いならお茶だと言う時は多い。

熱を通していると言う保証がお茶にはある。

それと自分は大して拘りが無いのに、

人へのお土産にいいお茶を買う。

少なくとも自分は、

お茶が美味しいと思った事がない。

初めて飲んでから今日まで、

この想いが変わった事は無く、

でもお茶が無いと何故か寂しい。

相手が怒っていようが、

少なくともお茶は出る。

お茶の醸し出す最小限の価値。

そして

お茶の醸し出す最大限の価値。

 

そのお茶を遥か彼岸の米国では、

パーティと称して海に捨てた。

その革命への序曲はお茶で始まった。

確かに米国人はコーヒーが好きだ。

どこに行っても、

オフィスの何処かで

コーヒーを飲ませる☕️バーがある。

このティーパーティのお陰で、

彼等はお茶が嫌いになったのだろう。

 

アメリカと日本は、

太平洋と言う彼岸を隔て、

全く違った夢をお茶に見た。

お茶は見事にその居場所を弁えている。

人も彼から奪った花の養分を、

返すことは出来ないだろうか?

 

 

永谷宗円

「宗円は茶業の傍ら、庄屋として村にある田地の土地改良に取り組んでいた。田原郷(現綴喜郡宇治田原町)、和束郷(現相楽郡和束)などにある田地は深い水田があり、干ばつの年には稲穂が実るものの、雨が多く降る年には実らず、村が困窮していた。これに私財を投じて排水を改善させたことで収量が安定するようになったため、宗円は郷人から「干田明神」と呼ばれるようになったという[4]。

〜中略〜

その後力を入れたのが、当時すでに存在していた抹茶と同様の美しの煎茶をつくり出すことである。煎茶自体は当時から存在していたが、現代のものとは異なり、文字通り煎じ煮だして用いる番茶のようなものであった[8]。

宗円はまず、従来の煎茶が新旧の葉が混ざっていたり、硬葉や老葉まで含まれていることに着目した。これを抹茶と同様に新芽のみを摘採するようにした。つづいて、摘み取った茶葉を煮る方法から抹茶と同じく蒸す方法に変更した。さらに、従来は茶葉を自然乾燥させていたのを焙炉上で揉みながら乾燥させる方法をとったのである[9]。かくして15年ほどの年月を経て、1738年元文3年)ついに青製煎茶製法が完成したのであった[10]。」ウィキペディア

 

永谷園

「永谷園」の起源は江戸時代山城国湯屋谷村(現:京都府綴喜郡宇治田原町)で煎茶の製法を開発した永谷宗七郎(のちの永谷宗円)[2]にさかのぼる。

製茶業や茶量の切り売りなどを経たのち、1953年昭和28年4月、宗円の10代目にあたる永谷嘉男によって創業された。

1952年(昭和27年)から発売が開始された「お茶づけ海苔で「永谷園」の経営を不動のものにした。業界で初めてフリーズドライ方式の即席味噌汁を開発したのも永谷園である。  」ウィキペディア

 

ボストン

「ボストン茶会事件(ボストンちゃかいじけん、: The Boston Tea Party)は、1773年12月16日にイギリス領マサチューセッツ湾直轄植民地(現アメリカ合衆国マサチューセッツ州)のストンにおいて、植民地人の急進派イギリス本国議会グレートブリテン議会英語版))に対する抗議として停泊中の船舶から積荷の茶箱を海に大量投棄した事件。アメリカ史において、後のアメリカ独立戦争への転機になった出来事と評される。

〜中略〜

ジョン・アダムズを始めとする多くのアメリカ人たちは、事件後は、紅茶を飲むことを非愛郷的と見なした。独立戦争中や終戦後にかけて、紅茶の消費は減少し、代わりに温かい飲料としてコーヒーが好まれるようになっていった[79]。」ウィキペディア

 

 

※※※※※

 夫婦

 

❺ここにゴム

❼ここに枕と

❺菊の花

❼妻の役目を

❼果たす我が妻

 

❺ココニゴム

❼ココニマクラト

❺キクノハナ

❼ツマノヤクメヲ

❼ハタスワガツマ

 

 

あの時僕は、

某国で最大規模の洪水にあった。

ドンムアン国際空港の滑走路、

ドンムアン国際空港の敷地全体が水に浸かり、

何ヶ月も飛行機が離着陸出来ない、

最悪の洪水だった。

ドンムアン空港は決して海に近い空港ではなく、

ドンムアン空港は決して、

チャオプラヤ河に近い訳では無く、

こんなところが洪水になるとは信じられなかった。

いつものバンコクの洪水が、

南にあるチャオプラヤ河起点であるのに対し、

この洪水は北のアユタヤから降りて来たのだ。

この洪水はそもそも人災であったのだ。

この洪水の原因はダムだった。

 

僕の家はバンコクで、

ラムカムヘン通りと言う通りの郊外にあり、

住宅地の名前をパーフェクトプレースと言った。

この家はややドンムアン空港より南寄りで、

未だ洪水は来ていなかった。

でも1つ北のラマインドラと言う道は 既に洪水で、

南に2kmも無いラムカムヘンも時間の問題だった。

ベンジャマスタサはこの愛する我が家に、

女中と犬と一緒に籠城すると言い張った。

 

既にこの頃、

僕とベンジャマスタサは名前だけ、

入籍関係だけの夫婦であり、

僕がたまに家に帰るだけで、

このHIV陰性の証の家には、

何の未練も無かった。

でも17年ローンの月賦と、

ベンジャマスタサの呪詛と籍に怯えて、

僕はこの家を逃げだし兼ねていた。

この部屋の一階の駐車場を改造して、

ぼくはそこに一人で寝起きしていた。

ベンジャマスタサは2階の、

マスターベッドルームに犬と暮らして、

厚み50cmはあろうかと言う高級マットに、

エアコンを20℃以下にして、

一日中寝ていたのである。

この夫婦は側から見れば、

幸せそうな子供に恵まれない、

夫婦だったかもしれない。

 

洪水はラムカムヘン通りに少しずつ姿を現し、

僕の乗っていたランサーの排気管を、

水がチャプチャプと擽ぐる様になってきた。

小型ボート、

発電機、

食料、

車の排気管につける煙突、

土嚢、

梯子、

まず一階は水が来るだろうと言う、

ニュースもあり、

不安と妄想は限りなく膨らみ、

それが買い物に繋がった。

こんな時も夫婦は、

夫婦のフリを貫きとうした。

少なくとも妻はフリを貫きとうした。

そしてあの日が来た。

この不安の中で、

ベンジャマスタサは僕にある提案をした。

それは彼女としては最大の譲歩だった。

それは僕としては最終の提案だった。

 

翌日、

僕の居たラムカムヘン通りを、

水は静かにアユタヤに向けて引いていった。

僕の居たラムカムヘン通りの、

パーフェクトプレースは、

完全にこの洪水を乗り切った。

そして僕等夫婦も危機を乗り切った。

 

タイ洪水

「タイ洪水(2011年)は、2011年モンスーン期にタイ起こった洪水チャオプラヤー川流域で甚大な被害を出し、メコン周辺でも洪水が発生した。7月から始まり3か月以上続いた洪水は、2011年11月5日の時点で446人が死亡し230万人が影響を受けたと見られ、また被害総額は1567億バーツ(4,000億円弱)と想定されている。600万ヘクタール以上が浸水し、うち30万ヘクタールは農地であった。北部チエンマイ県から、チャオプラヤー川流域の支流に存在する中部バンコクまで、58のに浸水が及んだ。この洪水は、「流出した水量と、影響を受けた人数に関して最悪の洪水」であると言われている。7つの主要な工業団地も最大で3m程度浸水し、それが40日程度続くと考えられている[1]。」ウィキペディア

 

某国の「菊」

ดอกเบญจมาศ

ドックベンジャマ

と言う。

ドックは花という意味🌼

ベンジャマが菊と言う意味。

 

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