2024/09/29

お早う御座います。

日曜日は法句経、

ダンマパの写経です。

全部で26章ありますので、

一章一章写経し、

と言ってもiPadにインプットし、

①写経 投稿一周目

②自分の極私的現実に照らし合わせ懺悔する。

投稿ニ周目以降は理解納得するまで考え、

次の章へ進みます。

を繰り返します。

どうかお付き合いください。

 

「法句経(ほっくぎょう)、ダンマパ(:Dhammapada)は、仏典の一つで、仏教の教えを短い詩節の形(アフォリズムで伝えた、韻文のみからなる経典である。「ダンマパダ」とは、ーリ語で「真理: dhamma)の言葉(: pada)」という意味であり、伝統的漢訳である「法句」とも意味的に符合する[1]。」Wikipedia

 

朗読 ブッダの真理の言葉 

第24章  愛執 解釈編

 

【今章の心に響く一節】

 

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この世において執着の元である、

この疼く愛欲のなすがままである人は、

諸々の憂いが増大する。

雨が降った後にはビイラナ草が蔓延る様に。

 

この世において如何ともし難い、

この疼く愛欲を絶ったならば、

憂いはその人から消え失せる。

水の雫が蓮華から落ちる様に。

 

さあ、皆さんに告げます。

ここに集まった皆さんに幸あれ。

欲望の根を掘れ。

芳しいウシイラ根を求める人は、

ビイラナ草を掘る様に、

葦が激流に砕かれる様に、

魔にしばしば砕かれてはならない。

 

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愛とか恋愛とか、

男女の間の営み、

愛着、

執着、

未練、

それらは、

実は、

本当は、

僕が欲しいものではなかった。(本当だ)

むしろ無い方が余程すっきりと爽やかだ。

むしろ無い方が余程すっきりと幸せだ。

無ければ無い方がなお良い。

子供の頃見た女の子と遊ぶ夢は、

彼女らが肉体的にも、

完全に閉じられた方錐の生物で、

彼女らが隠すべき部位は何も無く、

男女とは永遠の甘い会話のみを、

延々と楽しむ間柄だと思うていた。

 

だが実際には違い、

身体と自分の心を分けて考えると、

身体の要求は僕を狂わせる。

特に男性の場合、(と言うか男性しか知らない)

行為の最後に目指すあの執着点は

制御できぬ程痒く、

制御できぬ程の疼きを解放し、

今回が終着だ、

今回が最後だと言いながら、

何度となく終着を目指し、

愛や服従や束縛や報酬を条件に、

何度となくそれを求め、

それが永遠に続く事を錯覚する。

心はこの身体の為にあらゆる万難を排し、

心はこの身体の為にあらゆる段取りに苦節する。

あの一点の疼く痒みの為に。

 

そうして終わった後の局部は、

正直言って見られたものではない。

良く洗いもせず隠してしまいたい代物だ。

終わった後の局部の匂いは、

正直言って嗅げたものではない。

良く洗いもせず蓋をしてしまいたい代物だ。

その時の僕は実に至って冷静である。

 

だが時間が経つと身体は、

また其れを求める。

何も問題が起きなければ、

死ぬまで一生其れを求め続けるに違いない。

 

人は終わった後深い溜息をつく。

人は終わった後深くトーンハーイチャイをする。

自分の身体に呆れ、

自分の心に深い許しを乞う瞬間だ。

本当にその瞬間だけ彼は冷静だ。

 

【諸法無我】

 

前回前々回の解釈の投稿で、

「諸行無常」と「一切皆苦」については終わった。

だが、

諸法無我、

涅槃寂静、

についてはスライドも無いし、

良く知らない。

また、このポイントについては、

大乗仏教、上座部仏教、考えの違いもあるようで、

多分今回だけでは終わらない。

とにかくも、

三法印と四法印を見てみる。

 

四法印とは

「四法印(しほういん)は、諸行無常諸法無我一切皆苦涅槃寂静をまとめた教え[1]。一切皆苦は一切行苦、あるいは一切諸行皆悉是苦とも言われる[1]。

 

  1. 諸行無常 すべての物事は常ならざるものである。
  2. 諸法無我 すべての物事は我(が)ならざるものである。
  3. 一切皆苦 この世のすべては苦しみである。
  4. 涅槃寂静 涅槃は安らぎの境地である。」ウィキペディア

 

三法印とは

「三法印(さんぼういん)は、仏教において三つの根本的な理念(仏法)を示す仏教用語である[1][2]。

 

  1. 諸行無常印(: anityāṃ sarvasaṃskārāṃ[2])-「すべての現象(形成されたもの)は、無常(不変ならざるもの)である」
  2. 諸法無我印(: sarvadharmā anātmānaḥ[2])-「すべてのものごと(一切法)は、自己ならざるものである」
  3. 涅槃寂静印(: śāntaṃ nirvāṇaṃ[2])-「ニルヴァーナは、安らぎである」

法印(ほういん、: dharmoddāna[3][4])とは、仏教と他の教え(ラモン教ヒンドゥー教六師外道)との区別を明らかにする用語[5]と一般に言われるが、パーリ仏典には、このような術語はみられない。[6][1]

上座部仏教においては、代わって三相(諸行無常,一切行苦,諸法無我)を採用する[2]。」ウィキペディア

 

そしてここから、

無我に行き着く。

これは今回紹介する慈しみの瞑想の中にも出て来る。

何処にも無我とは書いていないが、

心は無我の大地と読める。

 

心は大地のように

「大地は、如何なる清らかなものを捨てても、

如何なる不浄なものを捨てても、喜ぶことも嫌がることもありません。

私も、他の生命の賞賛・非難などを受ける時は、大地のようなこころを保ちます。

生きとし生けるものが幸せでありますように。」

宗教法人 日本テーラワーダ仏教協会

 

実は今日から、

慈しみの瞑想が10節全て揃った。

そしてこの投稿の為の勉強も、

無我の記事に行き着いた。

今回は引用が多いが勘弁して欲しい。

 

無我(自己ならざるもの)

「無我(むが、: anattā, アナッター[注 1]、: अनात्मन, anātman, アナートマン, nairātmya[3], ナイラートミャ)は、あらゆる事物は現象として生成しているだけであり、それ自体を根拠づける不変的な本質は存在しないという意味の仏教用語[3][4]。非我とも訳される[4]。アートマン)とは、永遠に変化せず(常)・独立的に自存し(一)・中心的な所有主として(主)・支配能力がある(宰)と考えられる実在を意味する[4]。全てのものにはこのような我がなく、全てのものはこのような我ではないと説くのを諸法無我という[4]。」ウィキペディア

 

「アナッター(無我)は生物の性質であり、加えてアニッチャ(、非恒常、永遠でないこと)、ドゥッカ(、不満足なこと)を加えて仏教の三相をなし、また三法印四法印の1つ[3][4][5][6]。これはダンマパダなど多くの経典で確認される[7]。仏教では四諦を述べ、輪廻を脱する道があると主張する[注 2][注 3]。」ウィキペディア

 

四諦は既にスライドを載せた。

少なくとも人間の身体は物質として、

ある日のあなたと、

今のあなたは違う身体だ。

それは僕が思うに、

心も一緒だ。

毎日の心の受想行識は、

本人を飽きさせない程に日々違う。

其れを疲れのせいだけにするのは、

余りにも安易だ。

 

人無我と法無我

「しかし、その後「我がない」(無我)という解釈に発展し、人無我と法無我の二つが考えられた[28]。人無我とは、人間という存在(有情、衆生)は五蘊が仮に和合した無常なるものに他ならないから、恒常不滅なる自我の存在、実体的な生命主体というようなものは無いということ[4][28]。法無我とは、あらゆるものは縁起因縁によって仮に成り立っているものであるから、そのものに恒常不滅なる本体、本来的に固有な独自の本性(自性)はないということである[4][28]。これは大乗仏教も受け継がれて、般若思想では「無我」は「」と表現された[28]。」ウィキペディア

 

我と言う目に見えない不可侵の城郭を把握したい。

この施設にいる認知のおじいちゃんおばあちゃんの我は、

一体今何処に居るのか、知りたい。

次週。

 

【慈しみの瞑想】⑤

 

こころは空気のように

空気と空気が何の対立もなく一体になるように、

私の慈しみの気持ちが、

全ての生命のこころと一体になりますように。

 

水と水が何の対立もなく一体になるように、

私の慈しみの気持ちが、

全ての生命のこころと一体になりますように。

 

太陽の光が、地球の隅から隅まで照らすように、

私の慈しみの光が、全ての生命のこころをさまたげ無く照らせるように、制限無く、慈しみを育みます。

 

東・西・南・北・上・下という六方に住む生命に対して、

無限に、とどまること無く、慈しみを育みます。

宗教法人 日本テーラワーダ仏教協会

 

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