2024/7/31

115 健康

くれぐれもこの投稿はノンフィクション

 

健康とは目に見えないものである。

健康とは実体の無い実感である。

健康とはお金に出来ない実体である。

健康はそれを感じている時が実際に健康で、

健康はそれを感じ無くなれば実際に不健康である。

健康の居住まいと命の居住まいは似ている。

 

健康の大黒柱は、

食と、

排泄の

二本柱で

間違いは無い。

人間、

哺乳類の先祖は、

そもそも食と、

排泄が一緒の穴で、

排泄物は口の周りに垂れ流しだった。

それが、

口と排泄が分かれ、

長い腸を持って繋ぎ、

口の周りに頭が出来、

頭に脳や眼を始めとした重要なパーツが固まり、

四つ足となり、

脳が大きくなり、

特に人間は二足歩行をする様になったと言う。

 

この施設で自分も含め、

お年寄りを見ていると思うのである。

それが、

脳であり、

血圧であり、

糖尿であり、

腎臓であり、

何の病気であれ、

それを立て直すシステムは食と排泄ではないか、と。

これを運動で維持することが即ち、

健康ではないか?と。

ただここで言う運動とは、

スポーツではない。

運動だ。

 

運動とは

「物理学において、運動(うんどう、: motion)とは、物体基準系の位置関係の、あるいはより一般に力学系の状態の時間の経過に伴った変化である。時間の経過を考慮しない場合は、位置関係の変化は変位(displacement)として、一般の状態の変化は遷移(transition)として区別される。」ウィキペディア

 

スポーツとは

「スポーツ(アメリカ英語: sports、イギリス英語: sport)は、一定のルールに則って技術の優劣を競う活動()の総称である

〜中略〜

「sports スポーツ」の語源はラテン語の「deportare デポルターレ」にさかのぼるとされ、「ある物を別の場所に運び去る」が転じて「憂いを持ち去る」という意味、あるいはportare「荷を担う」の否定形「荷を担わない、働かない」という意味の語である。これが古フランス語の「desporter」「(仕事や義務でない)気晴らしをする、楽しむ」となり、英語の「sport」になったと考えられている[3]。」ウィキペディア

 

つまり、

あなたがいなければ起こる筈の無い動きは全て運動である。

従って、

出来るだけ動く事こそ人間の生まれてきた使命である。

僕たちは子供の頃からこの点を混同して、

❶スポーツの得意な人、

❷スポーツの苦手な人、(運動神経の無い人)

と言う嗜好、差別の領域に運動を混ぜ込み、

そうゆう体育教育や、

そうゆうスポーツヒエラルキーに育った。

❷の人々は健康上問題が無ければ、

運動などしなくても良いのではないか、

と言う単なる苦手な科目扱いとなったのである。

こう言っている僕も、

運動、スポーツ、体育がごっちゃである。

これらは全て別である。

 

上記のウィキペディアのスポーツの記事、

中略以降の文章を注意して見てもらいたい。

ラテン語のdeportare デポルターレは、

想像するに体を動かす事が、

精神にとって為になると言う、

スポーツの原点だった様だ。

それがどこで掛け違えたのか、

「憂いを持ち去る」が、

「一定のルールに則って技術の優劣を競う活動」

になってしまった。

嫌、スポーツは良い事である。

だが運動とスポーツの意味を、

ごっちゃにしたのが人間にとって不幸であった。

スポーツと運動を分けて考える言葉が必要であった。

嫌、実際には言葉は正確に分けている。

分けているが、

体育はスポーツであり運動であると捉えられがちだ。

多分単なる外来語程度に捉えているフシがある。

今日もどこかで、

体育の時間を憂鬱に過ごしている、

自称運動神経が鈍い子がいる。

彼らの運動の幸せを奪わないで欲しい。

 

体育とは

「体育(たいいく)または身体教育(しんたいきょういく)とは、身体に関する教育を指す言葉である。スポーツとは区別される。

〜中略〜

「体育」という言葉は、1876年近藤鎮三によって「Physical Education」の訳語として使用されたのが最初とされる。当初は「身体に関する教育」として扱われ、その後、「身体之教育」から「身体教育」に、そして「身教」を経て、「体育」に至った[1]。」ウィキペディア

 

僕は幸せの物質のことをYouTubeで知り、

自分で検証した。

自分を検証した。

自分の疲れた感情、

自分の不快感、

自分の怒り不満、

その殆どが家事生活の為の運動で改善される。

手拭いを洗面所で洗ったり、

洗面所のカランを洗浄したり、

髭剃り機を掃除したり、

歯磨きをしたり、

ユリノーライダーになったり、

何よりも重要なのは着替えで、

何よりも重要なのは清拭、

何よりも重要なのは陰部の清拭で、

そして最も重要なのはトイレである。

 

これらを行なっている時の自分を観察すると、

明らかに自分は機嫌が直っている。

しかもそれを何日も続けると、

明らかに自分は幸せな気分になっている。

その気分は起きてから寝るまで、

その気分は日曜日から土曜日まで、

明らかに持続する。

 

改めて言うと、

僕は右半身麻痺の1級障害者である。

この体でどうやってスポーツをやれと言うのか?

この体でどうやって運動をやれと言うのか?

スポーツは否だが、

運動は是である。

スポーツと聞くと、

隣の庭の話の様に聞こえるが、

運動と聞くと最近は、

自分の得意科目の様な気がする。

 

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