2024/07/14

お早う御座います。

日曜日は法句経、

ダンマパの写経です。

全部で26章ありますので、

一章一章写経し、

と言ってもiPadにインプットし、

①写経 投稿一周目

②自分の極私的現実に照らし合わせ懺悔する。

投稿ニ周目以降は理解納得するまで考え、

次の章へ進みます。

を繰り返します。

どうかお付き合いください。

 

「法句経(ほっくぎょう)、ダンマパ(:Dhammapada)は、仏典の一つで、仏教の教えを短い詩節の形(アフォリズムで伝えた、韻文のみからなる経典である。「ダンマパダ」とは、ーリ語で「真理: dhamma)の言葉(: pada)」という意味であり、伝統的漢訳である「法句」とも意味的に符合する[1]。」Wikipedia

 

朗読 ブッダの真理の言葉 

19章 道を実践する人 写経編

 

荒々しく事柄を処理するからとて

公正な人では無い。

賢明であって義と不義との両者を見極める人、

粗暴になる事なく、

決まりに従って、

公正な仕方で他人を導く人は、

正義を守る人であり、

道を実践する人であり、

聡明な人であると言われる。

 

多くところからとて、

その故に彼が賢者なのではない。

心穏やかに、

恨む事無く、

恐れる事の無い人、

彼こそ賢者と呼ばれる。

 

多くところからとて、

その故に彼が道を実践している人なのではない。

例え教えを聞くことが少なくても、

身をもって真理を見る人、

怠って道から外れる事の無い人、

彼こそ道を実践している人である。

 

頭髪が白くなったからとて、

長老なのではない。

ただ歳をとっただけならば、

虚しく老いぼれた人と言われる。

誠あり、

徳あり、

慈しみが有って、

損なわず、

慎みあり、

自ら整え、

穢れを除き、

気をつけている人こそ、

長老と呼ばれる。

 

妬み深く、

吝で、

偽る人は、

ただ口先だけでも、

美しい容貌によっても、

端正な人とはならない。

 

これを断ち、

根絶やしにし、

憎しみを除き、

聡明である人、

彼こそ端正な人と呼ばれる。

 

頭を剃ったからとて、

戒めを守らず、

偽りを語る人は、

道の人ではない。

欲望と、

貪りに満ちている人が、

どうして道の人であろうか?

大きかろうとも、

小さかろうとも、

悪を全て止めた人は、

諸々の悪を静め滅ぼしたのであるから、

道の人と呼ばれる。

 

他人に食を乞うからとて、

それだけでは、

托鉢僧なのではない。

穢らわしい行いをしているならば、

それでは托鉢僧ではない。

この世の福楽も、

罪悪も捨て去って、

清らかな行いを収め、

良く思慮して、

世に処しているならば、

彼こそ托鉢僧と呼ばれる。

 

ただ沈黙しているからとて、

愚かに迷い、

無知なる人が、

聖者なのではない。

秤を手に持っている様に、

いみじき者を取り、

諸々の悪を除く賢者こそ

聖者なのである。

彼はその故に、

聖者なのである。

 

この世にあって、

善悪の両者を秤にかけて量る様に、

良く考える人こそ、

聖者と呼ばれる。

 

生き物を害うからとて、

聖者なのではない。

生きとし生ける者共を害わないので、

聖者と呼ばれる。

 

私は出理の楽しみを得た。

それは凡夫の味わい得ない物である。

それは戒律や、

誓いだけによっても、

また博学によっても、

また瞑想を体現しても、

また1人離れて臥す事によっても、

得られない物である。

 

修行僧よ、

穢れが消え失せない限りは、

油断するな。

 

 

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