2024/07/07

お早う御座います。

日曜日は法句経、

ダンマパの写経です。

全部で26章ありますので、

一章一章写経し、

と言ってもiPadにインプットし、

①写経 投稿一周目

②自分の極私的現実に照らし合わせ懺悔する。

投稿ニ周目以降は理解納得するまで考え、

次の章へ進みます。

を繰り返します。

どうかお付き合いください。

 

「法句経(ほっくぎょう)、ダンマパ(:Dhammapada)は、仏典の一つで、仏教の教えを短い詩節の形(アフォリズムで伝えた、韻文のみからなる経典である。「ダンマパダ」とは、ーリ語で「真理: dhamma)の言葉(: pada)」という意味であり、伝統的漢訳である「法句」とも意味的に符合する[1]。」Wikipedia

 

朗読 ブッダの真理の言葉 

18章 汚れ 解釈編

 

000000000

 

情欲に等しい日は、

存在しない

不利な賽の目を投げたとしても、

怒りに等しい不運は、

存在しない

迷妄に等しい綱は、

存在しない

妄執に等しい川は、

存在しない

他人の過失は見易いけれど、

自己の過失は見難い

人は他人の過失を、

籾殻の様に吹き散らす

しかし自分の過失は、

隠してしまう

狡猾な賭博師が、

不利な賽の目を隠してしまう様に

 

他人の過失を探し求め、

常に怒り猛る人は、

煩悩の汚れが増大する

彼は煩悩の汚れの消滅から、

遠く隔たっている

 

000000000

 

怒り。

今回もまた怒りに焦点を当てたい。

一体怒りとはそれを発生させない事は出来ないのだろうか?

怒りとは、それを発生させない人だけが、悟った人と呼ばれるのだろうか?

それとも怒りとは発生させても良く御する人を悟った人と呼ばれるのだろうか?

怒りの発生は時に唐突で、

怒りの発生は時に複数で、

怒りの発生は常に受け身で、

怒りは要らぬ怒りの連鎖を呼び、

怒りが要らぬ疑念と、

怒りが要らぬ力を使い、

怒りがいつの間にか生活の中心となり、

怒りを持って為さねば何事も気が済まない。

怒りを如何に隠しても、

怒りを自分の心から隠す事は出来ない。

怒りが収まるのは時間を置いて他ない。

 

毎日十善戒を唱え、

施設の人に、

もし僕が誰かを怒鳴ったならその日の食事は取らないと誓っている

今の所、何とか戒めに従って生活しているが、

内心ではヒヤヒヤものだ。

心に立つ怒りの波にはつくづく呆れる。

一体こんな有様で自分は涅槃に行けるのかと不安になる。

十善戒の中でもこの怒りに繋がる戒は何点かある。

 

①ヴァッチャよ、殺生は不善である。殺生から離れることは善である。

②ヴァッチャよ、偸盗は不善である。偸盗から離れることは善である。

③ヴァッチャよ、邪淫は不善である。邪淫から離れることは善である。

④ヴァッチャよ、妄語は不善である。妄語から離れることは善である。

⑤ヴァッチャよ、両舌は不善である。両舌から離れることは善である。

⑥ヴァッチャよ、悪口は不善である。悪口から離れることは善である。

⑦ヴァッチャよ、綺語は不善である。綺語から離れることは善である。

⑧ヴァッチャよ、貪欲は不善である。不貪欲は善である。 

⑨ヴァッチャよ、瞋恚は不善である。不瞋恚は善である。

⑩ヴァッチャよ、邪見は不善である。正見は善である。

 

ヴァッチャよ、これら十の不善法、十の善法がある。

パーリ仏典, パーリ仏典中部73 大ヴァッチャ経, Sri Lanka Tripitaka Project

 

この10の戒めの内特に、

⑥ヴァッチャよ、悪口は不善である。悪口から離れることは善である。

⑧ヴァッチャよ、貪欲は不善である。不貪欲は善である。 

⑨ヴァッチャよ、瞋恚は不善である。不瞋恚は善である。

⑩ヴァッチャよ、邪見は不善である。正見は善である。

 

の4つの戒めが危ない。

この身口意が微妙に絡んで怒りを生む。

あるいは、怒りこそは人の世に率先している。

と言うか、ブッダは何故この十善戒の中に、

「怒りは不善である」と言わないのであろう。

何故瞋恚と言うのかしら?

 

瞋恚

「瞋(しん、: dveṣa, pratigha、: dosa)は、仏教における煩悩のひとつで、怒りを指す[1]。瞋恚(しんに)ともいう。憎しみ[2]、嫌うこと、いかること[3]。心にかなわない対象に対する憎悪[2][4]。自分の心と違うものに対して怒りにくむこと[5]。」Wikipedia

 

怒りとは

「怒り(いかり、: anger)とは、人間の原初的な感情のひとつで、様々な要因・理由で起きるもの。例えば目的を達成できない時、自分の思い通りにならない時、身体を傷つけられた時、侮辱された時などに起きるものである[1]。憤り(いきどおり)とも言う。特に激しい怒りは憤怒(ふんぬ。忿怒とも)と言われる。用言動詞的な表現としては「を立てる」「立腹」「カッとなる」「に来る」とも。また、一部の動物イヌネコなどの哺乳類、鳥類、その他)も怒りの感情を持つ。」Wikipedia

 

この答えを僕はWikipediaやネット上で見つける事が出来た。

でも微妙な違いでこれをよう説明しない。

まあ宿題だ。

そして、この瞋恚を御する方法は僕の作ったスライド四無量心の中にあった

 

瞋恚を断つ方法

「瞋恚を断つ方法としては、パーリ仏典大ラーフラ教誡経(Mahārāhulovāda-sutta)に例が示されている。この中で、釈迦は息子の羅睺羅(ラーフラ)に以下のように説いている。

Mettaṃ rāhula bhāvanaṃ bhāvehi. Mettaṃ hi te rāhula bhāvanaṃ bhāvayato yo vyāpādo so pahīyissati. 

ラーフラよ、の瞑想を深めなさい。というのも、慈の瞑想を深めれば、どんな瞋恚も消えてしまうからです。

パーリ仏典, 中部, 62.大ラーフラ教誡経 p148, Sri Lanka Tripitaka Project

 

そうこの慈悲の瞑想こそ僕が目指す瞋恚を絶つ方法だ。

今日は、引用が多くて恐縮ではあるが我慢してください。但し最後のスライドは僕が自分の知足安分の声聞サイトから持って来たものです。

 

慈悲の瞑想

「慈悲の瞑想(じひのめいそう)、あるいは、慈愛の瞑想[1][2](じあいのめいそう、パーリ語: mettā bhāvanā[3]、mettā kammaṭṭhāna[4]、英語: cultivation of loving-kindness)とは、上座部仏教における瞑想の一種である。パーリ語の名称である「mettā bhāvanā」(メッター・バーヴァナー)は、「(慈愛)の育(はぐく)み」といった意味。

上座部仏教における、サマタ瞑想に入る際の40種類ある瞑想対象四十業処)の中に、「」の四無量心あるいは四梵と呼ばれるものがあるが、それを簡便化したのが現代において広く行なわれている慈悲の瞑想である。」Wikipedia

 

仏教の慈悲

仏教において慈悲(じひ)とは、他の生命に対してを与え、を取り除くこと(抜苦与楽)を望む心の働きをいう[1]。一般的な日本語としては、目下の相手に対する「あわれみ、憐憫、慈しみ」(mercy) の気持ちを表現する場合に用いられる。

慈悲は元来、4つある四無量心四梵住)の徳目「」(じ・ひ・き・しゃ)の内、最初の2つをひとまとめにした用語・概念であり、本来は慈(いつくしみ)、悲(あわれみ)と、別々の用語・概念である[1]。」Wikipedia

 

そしてここから僕の四無量心スライドとなる。

 

四無量心とは

 

つまり、菩薩行の一つとして慈が定めれられている。

この先、僕としては、慈の瞑想の方法も勉強したい所ではあるが、ブログのスペースと何より理解が足りない。次週の投稿に間に合えばとは思うが、間に合わなければ、次の章の写経に入る。ヴィパッサナー瞑想と言う瞑想は僕の瞋恚を絶ってくれるだろうか

そして下記の文章を引用してこの投稿を閉じる。

 

「(仏教の慈悲)これはキリスト教などのいう、優しさや憐憫の想いではない[1]。仏教においては一切の生命は平等である。楽も苦も含め、すべての現象は縁起の法則で生じる中立的なものであるというのが、仏教の中核概念であるからである[1]。」Wikipedia

 

この一言が欲しかった。

だから僕は仏教に帰依したのです。

 

合掌

 

00000

00000