山月記

 

❺火を知らず

❼身の毛を知らず

❻爾時咆哮

❼人に帰らず

❾山月に帰らむ

 

❺ヒヲシラズ

❼ミノケヲシラズ

❻ニジホウコウ

❼ヒトニカエラズ

❾サンゲツニカエラム

 

山月記…

嗚呼この作品は正に今いる施設の、

自分の知っているお爺さんである。

認知症で一日中唸っていて、

オムツを取り替えようと近づくと、

虎の様な大声を張り上げる。

身を硬くして誰にも自分を触らせない。

その咆哮は施設の中に響き渡る。

そしてその姿を日々人に背を向けて要る。

正に山月記だ!

 

そんな恐ろしいお爺さんではあるが、

挨拶には必ず応える。

それが救いだ。

挨拶しないのは認知の始まりである。

挨拶しないのは人間を辞めるシグナルである。

山月記の李徴もそんな男だったのかもしれない。

 

月夜の夕方に彼のベッドを見ると、

普段は瞑想に耽っている目を開けて、

じっと天井を見つめている。

あの時間こそお爺さんが、

自分と向き合う僅かな刹那かもしれない。

 

 

山月記抜粋

「ただ、一日の中に必ず数時間は、人間の心が還かえって来る。そういう時には、曾ての日と同じく、人語も操あやつれれば、複雑な思考にも堪え得るし、経書けいしょの章句を誦そらんずることも出来る。その人間の心で、虎としての己おのれの残虐ざんぎゃくな行おこないのあとを見、己の運命をふりかえる時が、最も情なく、恐しく、憤いきどおろしい。しかし、その、人間にかえる数時間も、日を経るに従って次第に短くなって行く。今までは、どうして虎などになったかと怪しんでいたのに、この間ひょいと気が付いて見たら、己おれはどうして以前、人間だったのかと考えていた。これは恐しいことだ。今少し経たてば、己おれの中の人間の心は、獣としての習慣の中にすっかり埋うもれて消えて了しまうだろう。」青空文庫

 

山月記とは

「『山月記』(さんげつき)は、中島敦短編小説1942年昭和17年)に発表された中島のデビュー作である[1]。唐代、詩人となる望みに敗れてになってしまった男・李徴が、自分の数奇な運命を友人の袁傪に語るという変身譚であり、清朝説話集『唐人説薈』中の「人虎伝」(李景亮の作とされる)が素材になっている[1][注釈 1]。『山月記』の題名は、虎に変わった李徴が吟じる詩の一節「此夕渓山対明月」から取られている。」Wikipedia

 

じ【×爾】

人名用漢字] [音]ジ(漢) ニ(呉) [訓]なんじ それ その

※※※※※

Mimicry【模倣】🇻🇳

 

❺人は皆

❼観客の要る

❼吟遊私人

❽模倣(mô phỏng)に育ち

❼競争(cạnh tran)に負け

❼偶然(ngẫu nhiên)に会い

❽絶望に眩暈(hoa mắt )

rất thú vị.

 

❺ヒトハミナ

❼カンキャクノイル

❼ギンユウシジン

❽モホウニソダチ

❼キョウソウニマケ

❼グウゼンニアイ

❽ゼツボウニメマイ

 

人生の殆どにプライバシーが無かった事を知り、

僕の物事の見方は変わった。

こうしている今も誰かが僕を見ている。

でも、

人はそれほど完璧なプライバシーを得る事が、

本当に重要だろうか?

そうやって完璧なプライバシーを守る事は、

完璧な寂しさを守る事ではないのか?

模倣(mô phỏng)

競争(cạnh tran)

偶然(ngẫu nhiên)

眩暈(hoa mắt )

僕達はいつも、

見えない誰かを観客に演技する吟遊私人だ。

そしてある日知らない人の前で、

眩暈して倒れる吟遊私人だ。

人は少しでも病気になれば、

その舞台にデビューする。

そして痛切にその事を思い出す。

 

ごっこ遊びとは

「ごっこ遊び(ごっこあそび、英語: Make believe)はこどもの遊びの一種で、何かになったつもりになって遊ぶものである。子供の遊びのうちで普遍的に見られる様式の一つだが、子供が興味や関心を抱く対象を模倣することで行なわれる。ロジェ・カイヨワの行なった遊びの分類の内の「ミミクリ」(mimicry、模倣)に属する。」Wikipedia

 

「著書としてはヨハン・ホイジンガの『ホモ・ルーデンス』に影響されて執筆した『遊びと人間』が有名で、カイヨワはその中で「遊び」を〈アゴーン(競争:文字通り徒競走など)〉、〈アレア(偶然:ルーレットなど)〉、〈ミミクリー(模倣:演劇やRPGなど)〉、〈イリンクス(眩暈:絶叫マシーンなど)〉の4種類に分類して考察している。」Wikipedia

 

cạnh tran 競争

ngẫu nhiên 偶然

mô phỏng 模倣

hoa mắt 眩暈

※※※※※

オアシス

 

❻장군 (jang-gun )翔 

❼공주 (gongju )跳ね咲む

❽木の葉のステップ

❾匿名のオアシス

❼코끼리 (kokkiri)の宴(円、園、艶)

 

❻ジャングント

❼コンジュハネエム

❽コノハノステップ

❾トクメイノオアシス

❼コッキリノエン

 

僕は実は、

韓流が大好きだ。

特にソルガングが大好きで、

この作品は大好きだ。

不敬罪を怖れずに言うと、

韓流の良いところはその匿名性だ。

韓流の良いところはそのだ。

韓流の良いところはその表現の自由だ。

名前や、

文化、

家族と言う幻に頼らないところだ。

曰く付きの物で威張る事をしない事だ。

そして見る者を飽きさせない事に注力する。

曰く付きの何処かの国の映画にはとても真似が出来ない。

最近はどうなのだろう?

 

映画のエッセイはこちら

 

 

jang-gun = 将軍

gongju = お姫様

 

韓国語ハングル

코끼리

韓国語の発音を聞く

ハングルのフリガナ

[コッキリ]

意味

象(ぞう

 

オアシスとは

「オアシス(Oasis)とは砂漠ステップなど乾燥地域における緑地。

直接的な語源は古代ギリシア語にあり(Ὄασις Oasis)、ヘロドトスの「歴史」(第3巻 26節)に見られる。ここでは、リビア砂漠に存在した諸都市(アシス都市)の名とされている。この語は、さらに溯って、恐らくは古代エジプト語(wḥʾt 「オアシス」「オアシス地域」)の借用と考えられている[1]。

転じて「憩いの場所」を意味する。」Wikipedia

 

【オアシス】抜粋

「検査が終わった後、再び古い家に戻されたコンジュは、ジョンドゥが残していった電話番号に電話をかけ、ジョンドゥは再びコンジュの家を訪れる。コンジュが朝鮮語で公主(=「お姫様」の意味)と同じ音であることを面白がるジョンドゥに対しコンジュは心を開き、ジョンドゥを「将軍」と呼ぶようになる。そしてジョンドゥは定期的にコンジュの家を訪ねるようになるのだが・・・。」Wikipedia

 

潔白な豆腐

「出所したジョンドゥが小さな食料品店の店先で豆腐にかぶりつく場面があるが、これは韓国の風習で刑期を終えて出てきた人間が、身も心も潔白になるようにと白いもの(豆腐や牛乳を食することによるものである。本来なら迎え出る人間が用意しておくものだが、ジョンドゥは誰にも迎えに来てもらえなかったため自ら買って食べた。」

 

韓国語できれい「깨끗하다(ケックタダ)」と「예쁘다(イェップダ)」とありますが、これにはどんな違いがありますか? 

「깨끗하다」と「예쁘다」も「きれいだ」という意味ですが、

1.「깨끗하다」はゴミひとつ落ちていない清潔な清らかさを指す。たとえば、방을 깨끗하게 정리하다.(部屋をきれいに片付ける)のように使われる。

2.「예쁘다」は容姿や内面の美しさを指す。たとえば、그녀는 마음이 예쁘다.(彼女は心がきれいだ)のように使われる。

yahoo

 
※※※※※
00000