2023/2/12

お早う御座います。

日曜日は法句経、

ダンマパの写経です。

全部で26章ありますので、

一章一章写経し、

と言ってもiPadにインプットし、

①写経 投稿一周目

②自分の極私的現実に照らし合わせ懺悔する。

投稿ニ周目以降は理解納得するまで考え、

次の章へ進みます。

を繰り返します。

どうかお付き合いください。

 

「法句経(ほっくぎょう)、ダンマパ(:Dhammapada)は、仏典の一つで、仏教の教えを短い詩節の形(アフォリズムで伝えた、韻文のみからなる経典である。「ダンマパダ」とは、ーリ語で「真理: dhamma)の言葉(: pada)」という意味であり、伝統的漢訳である「法句」とも意味的に符合する[1]。」Wikipedia

 

朗読 ブッダの真理の言葉 

第8章 「千という数にちなんで」解釈編/タンブン

 

今回の解釈は非常に共感出来た。

そして何故僕がブッダを信仰するのか、

改めて再認識した。

 

僕は長年、不敬罪の某国で、

ある時期から仏教を拝み始めた。

それは最初の家内の真似事で、

HIVに感染した家内が、

直ります様にとのお願いの為であった。

次の家内に娘が出来、

その安産と無事育つ様お願いした。

そして僕は、会社でも責任者となり、

会社の業績、

自分の昇進、

大口の受注など、

ここぞという所では必ず仏様に祈った。

今思えば経文も読まない、

線香と水と花輪だけ供える、

デタラメな仏教徒であったが、

ロンポーソートンと言う、

バンコク郊外の有名なお寺に、

2、3月に一度は礼拝し、

何か良い事があれば卵を茹で、

供物として捧げた。

お寺から仏像をお借りし、

(仏像は買ったと言ってはいけず、

お借りしたと表現する。)

家には仏像が事ある毎に増えていった。

 

だがブッダは弟子に仏像を作る事を禁じたと言う。

 

でも、

日本、韓国、チベット、ベトナム等の、

大乗仏教で、仏像の無いお寺は多分無く、

タイ、ラオス、カンボジア、ミャンマー等の、¥

上座部仏教でもそこは同様で、

僕が日々投稿時に添えている仏像を見れば、

(全て僕がアイフォーンで撮った仏像とお寺だ)

仏教の最大のイニシアチブが、

このお寺の荘厳と、

壮麗な仏像に有ると、

どうしても思わざるをえない。

いや、

逆に仏教の魅力が、

信者に仏像とお寺を、

作らせるのかもしれない。

 

今こうして施設の、

カーテンで仕切られた4人部屋に居て、

日々真言宗の聖天さまを

朝夕勤行しているが、

ここは施設なので、

病気で倒れる前に持っていた仏具の中でも、

本物の蝋燭が使えず🕯

昨日やっと電子式の蝋燭を手に入れたが、

それが自分には本当に嬉しかった。

信仰の幸せとすら言わせてもらう。

 

仏教を信仰すると、

その功徳が目に見えて分かるため、

心がだんだんとエスカレートするのである。

最初に小さなブリキの、

キーホルダーの仏像を持っていても、

直ぐにそれは、

銅になり、

銀になり、

金になり、

サファイア、

メノウ、

ダイヤを埋め込み、

表面をチタンに染める。

更にその仏像を供える神棚が必要となる。

 

 

某国では、

道端で神棚が売られていて、

それも小さな物から、

大きな物まで様々であるが、

真面目に勤行するならば、

彼はあっという間に、

伽藍を建てたくなるに違いない。

 

会社でも、

最初のうちは、

お坊さんを呼んで、

お祓いをしてもらう程度であったが、

いつしかお坊さんの数が増え、

半日、1日掛りの供養(タンブン)になることが必定であった。

テントが張られ、

バンドが呼ばれ、

近所の人が皆お呼ばれし、

もち米、

トムヤムと言うスープ、

豚、

鶏、

魚、

果物、

挙句の果てに

メコンと言うブランデーまで出だし、

何をしているのか分からなくなった。

でも誰もが皆幸せそうだった。

でもお坊さんは

お祈りと、

お祓いと、

振舞われた食事だけをし、

早々に厳しい勤行に戻って行く。

これが仏教の魅力であり、

仏教の危うさではないか?

 

仏教徒になると言う事は、

人生を歩む指標を得る事だと思っている。

大きな機械を設置する時、

床に置くソウルプレートの様な物だと思っている。

絶対音感、

絶対ゼロ、

絶対温度、

絶対湿度、

人はそうゆう物を求め、

何があっても

生活を乱さず勤行し、

そして、

般若心経のような教えで、

そんな物は「無」であると、

教え突き放されるものだと、

思っている。

 

仏教徒は常に、

ブッダの言葉を戒めに、

反芻と、

逆説の、

連続を、

日々生きる

べきではないか?

 

人のために祈っても、

人のためのお布施を集める冪では無い。

自分の心を曲げてまで、

宗派にしがみつき、

そのヒエラルキーに加わり、

勧誘や寄付のノルマに、

日々追われる冪ではない。

 

このコロナの時代、

人はますます、

生きる指標を見失いがちだ。

オウムや、

〇〇会や

安倍さんの仕業で、

人々は、

宗教に怖れを抱くようになり、

仏教は死ぬ時だけ終活で、

お世話になろうと言う人が多い中、

高らかにその姿勢を、

不敬罪の犯罪者が否定させて貰う。

人は悪いことをしながら、

良い事は出来ない。

その逆も然りだ。

 

仏教は死ぬ為の教えではない。

仏教は生きる為の教えだ。

こんな施設の片隅でも、

勤行を続ければそこは、

精神のオアシスになる。

 

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功徳を得ようとして、

人がこの世で1年間神を祀り、

生贄を捧げ、

或いは火に捧げ物をしても、

その全部を合わせても、

神聖なる祭りの功徳の、

4分の1にも及ばない

行いの正しい人々を、

尊ぶことの方が優れている

 

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合掌

 

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