2024/02/05 月曜日

 

【長崎二十六聖人殉教の日】

1596(慶長元)年のこの日、豊臣秀吉のキリスト教弾圧により、長崎西坂で26人のキリスト教徒が処刑された。

殉教したのはペトロ・バプチスタ神父ら外国人6人と三木パウロ、茨木ルドビコ神父ら日本人20人で、この26人は1862年にローマ教皇ピウス9世によって聖人に列せられた。

 

【プロ野球の日】

1936年のこの日、全日本職業野球連盟が結成された。

当時は東京巨人軍(現 読売ジャイアンツ)・大阪タイガース(現 阪神タイガース)・大東京軍・名古屋軍(現 中日ドラゴンズ)・阪急(現 オリックスバファローズ)・東京セネタース・名古屋金鯱軍の7チームだった。

 

【ふたごの日】

双子育児用品の専門店・ベラミが制定。

「ふた(2)ご(5)」の語呂合せ。

 

【日本語検定の日】

日本語検定に協賛している東京書籍がそのPRのために制定。

「に(2)ほんご(5)」の語呂合せ。

 

【笑顔の日】

「ニ(2)コ(5)ニコ」の語呂合せ。

引用:富山いづみ <admin@nnh.to>

 

殉教。長崎二十六聖人の、宗教に身を捧げた人を考える時、キリスト教に身を捧げた人を考える時、その死が何であったのか?何のための死なのかを、つくづく考えてしまう。キリスト教のそもそものスタートであるイエスキリスト自体が殉教だからだ。殉教とはなんだろうか?

 

殉教とは?

「殉教(じゅんきょう)は、自らの信仰のために命を失ったとみなされる死のこと。キリスト教の歴史でよく用いられる言葉であるが、キリスト教以外の宗教でも見られ、宗教的迫害において命を奪われた場合や、棄教を強制され、それに応じないで死を選ぶ場合など、様々な形の殉教がある。なおキリスト教の一教派である正教会(日本ハリストス正教会)では殉教との語を使わず、致命(ちめい)・致命者の語を用いる。」Wikipedia

 

僕だって、幼稚園の時は、練馬区江古田のキリスト教系の「こひつじ幼稚園」に通い、毎日お祈りをしたものだ。その幼稚園の前の道で不注意飛び出しから交通事故にあい、トラックに7メートル引きづられ、生死の境を彷徨い、日大の先生に「命の保証は出来ません」とハッキリ言われた子だ。そして幼稚園の皆に千羽鶴を折って貰い、園長の周先生に毎日お祈りをして貰い、何とか一命をとりとめた子だ。キリスト教にはひとかたならぬ恩がある。キリスト教に命を救われた男が、キリスト教の殉教に疑問を持つのは当然だ。上記の引用にあるように、殉教はあまりにその意味が広く様々で困惑する。

 

①死にたく無いが殺されます。

②抗議のために死にます。

③死にたく無いが、事故、病気で死にます。

 

特に、長崎二十六聖人殉教の場合、豊臣秀吉の頭の中には、経済と宗教を分離しようと言う意味での弾圧でもあり私利私欲丸出しで、逆にポルトガル、スペインの場合、宗教をきっかけに日本への侵略を目指していたと聞いた事がある。日本人がその頃世界中で人身売買されているのを豊臣秀吉は知って激怒したとも言う。そんな中、犠牲となった彼らは、一体何の為に死んだのか?

何のために

何のために

何のために、

それを追求したらキリが無いが、殉教と言う言葉にはそれ程の厳粛さを感じる。死に名前をつけるなら、今まで死んだ全ての人間の命にも名前が欲しい。この人は何のために死にました、この人は何の為に生きましたと…これから大人になる子供達の為にも、死ぬより生きる方が辛い事を忘れてはならない。

 

ここで仏教における殉教を見よう。

 

仏教における殉教

仏教では釈迦の到達したとされる涅槃の原語ニルヴァーナ(nirvana)が「吹き消された状態」を意味するため、「煩悩が吹き消された状態」→「(煩悩が宿るところの)生命の火が吹き消された状態」すなわち「身体の死」(無余涅槃)こそ悟り・解脱であるとする立場が現れた。その立場に立って苦行を行い、自ら死に臨んだ僧達も一種の殉教者と言えるであろう。日本では身仏補陀洛渡海の例が知られる。

現代でも、抗議して焼身自殺する仏教僧侶は散発的に現れる。ベトナム戦争の際蓮華座を保ったまま堂々と焼身自殺したティック・クアン・ドックなどはその一例である。」Wikipedia

 

実は、僕のいた某国では、高名なお坊さんが、時々生き仏になっているようだ。そうゆうお坊さんの写真も何枚か持っている。ベトナムもそうだ。多分、引用のベトナム人🇻🇳僧侶ティック・クアン・ドック(Thích Quảng Đức)のお寺にも行ったのである。これはベトナム戦争前のショッキングな話であった。

マルコム・ブラウンが撮影したドックの焼身自殺。同ジャーナリストによる同様の写真がグランプリ受賞

Wikipedia

 

南ベトナム

「ジエムの弟にして大統領顧問・秘密警察長官であったゴ・ディン・ヌーの妻のマダム・ヌーは、アメリカのテレビインタビューで、この事件を「あんなのは単なる人間バーベキューよ」、「反米運動にアメリカ製ガソリンを使うなんて矛盾してるわ」、「今度同じことをするならガソリンとマッチを進呈する」[3]と発言し、それが全世界に報道されたため、南ベトナム国内やアメリカだけでなく世界中の大顰蹙(だいひんしゅく)を買い、国民のジエム政権への反発をいっそう高めた。」Wikipedia

 

でも、このWikipediaの解釈は少し強引なようだ。これを殉教と呼ぶのはおかしいと思う。涅槃の解釈もちょっと強引だ。僕は、仏教の根本的な考えには、殉教は無いと考えている。むしろ仏教は衆生が生きるための宗教だ。だから、ティック・クアン・ドック氏も衆生を救うために、やむなく自死を選んだのではないか?

某国のお坊さんも根本的には、衆生を救うために仏様になろうと厳しい修行を行った結果、その涅槃への到達点或いは通過点に死があったと考える。あれは殉教ではない。仏教には殉教ような死は無いと考えますが、違いますか?

今日は殉教を考え、死と生を考える日でした。

 

合掌

 

多分このお寺

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