2023/11/26
お早う御座います。
日曜日は法句経、
ダンマパの写経です。
全部で26章ありますので、
一章一章写経し、
と言ってもiPadにインプットし、
①写経 投稿一周目
②自分の極私的現実に照らし合わせ懺悔する。
投稿ニ周目以降は理解納得するまで考え、
次の章へ進みます。
を繰り返します。
どうかお付き合いください。
「法句経(ほっくぎょう)、ダンマパ(巴:Dhammapada
)は、仏典の一つで、仏教の教えを短い詩節の形(アフォリズム) で伝えた、韻文のみからなる経典である。「ダンマパダ」とは、パ ーリ語 で「真理・法(巴: dhamma)の言葉(巴: pada)」という意味であり、伝統的漢訳である「法句」とも意味的に符合する[1]。」Wikipedia
朗読 ブッダの真理の言葉
第3章 「心」 解釈編 「無視」
今回は、前回を受けて自分が今やっている「無視」とは誇り高き動物で、
無視とは
多分3だ。
「しかと」とは
「特定の対象を無視すること、
つまり冷遇することや居ないものとして扱うこと 〜中略〜
しかと、シカトとは、特定の対象(主に人[注 1])を無視すること、
つまり冷遇することや存在しないものとして扱うことを指す言葉[ 1][2][3]。元々はヤクザの隠語だったが、 一般の間でも使用されている。 〜中略〜
花札で10月(紅葉)の10点札が、
そっぽを向いた鹿の絵柄であることから転じて、博徒の間で無視の 隠語となった[4][5]。」Wikipedia
鹿とは?
シカ
「鯨偶蹄目シカ科の動物
シカ(鹿、英語: Deer)は、鯨偶蹄目シカ科 (Cervidae) に属する哺乳類の総称である。ニホンジカ、トナカイ、ヘラジカな
どが属しており、約16属36種が世界中の森林などに生息してい る。」Wikipedia
鹿の伝説・逸話
「
世界各地の山野に数多く生息していたシカ科の動物はほとんどの民 族の文化に対して古くから重要な影響を与えていたと思われる。 後世の文化においては、シカは「俊敏」「非力」 などの象徴として、 また時には峻険な山岳地の象徴として用いられることがある(カモ シカ も参照)。」Wikipedia
「鹿の遠音:古来。鹿の遠音を愛でるのは、文化人・
風流人の嗜みであった。1835年(天保6)刊行の『鳩翁道話』 (柴田鳩翁 口述)にはこんな逸話が載る。ある秋の夜、 男数人が連れ立って知り合いの和尚のいる山寺を訪ね、 鹿の音を愛でる酒宴を催した。 和歌を詠んだり詩を作ったりして待ち侘びたが、 その夜に限って鹿が一向に鳴かない。そのうち、ひとりが「 ウチの二十二歳の息子ときたら、 遊所通いばかりして商売は上の空。先行きが心配で、 今宵の酒は飲んでも飲んでもちっとも酔えない」と愚痴った。 すると別の男は「 あなたの稼いだ銭金を実の息子さんがお使いになる、 大いに結構じゃございませんか。あたしなぞは長年、 信をおいてきた使用人に、 つい先ごろ店の金を持ち逃げされました」と嘆いた。 これを聞いた別のひとりは「所詮カネで解決できるんだから、 お二人はまだマシですよ。ウチは嫁姑の仲が悪く、 間に立たされた私は毎日辛くて・・・」と号泣した。やがて、 ある人がはっと我に返り「皆さん、 私たちはこんな話をするために今宵ここへ集まったのではありませ ん。それにしても、いつになったら鹿が鳴いてくれるのか」 とぼやきながら障子を開けると、 庭には一頭の大鹿がぬっと立っていた。驚いた男が「お前さん、 ここで一体何をしておる?」と訊ねると、大鹿が言うには「 人間がなくのを聴いておりました。」Wikipedia
今回は最初から引用が多く仏様に申し訳ない。
今僕が、aさんに対して、
行っているオペレーション(行為)こそが、
「無視」である。
喋らない。
目も合わさない。
シツコク話し掛けられても、
「貴方と話している訳ではありません」
と言う。
αさんも初期に一度、
状況を打開しようと考えたのか、
トイレの前で笑顔で、
僕の行く先を塞いできて言った。
「何を怒ってるんだ?」と。
僕は「怒って居ません」と言った。
またある時はこう言ってきた。
「ちょっとだけ良いかしら」と。
今度仏壇を買ったと言う。
僕は答えた。
「ああ、そうですか?」と。
それだけ。
ただそれだけ。
僕は毎日この施設で、
会う人会う人に、
挨拶をして歩いている。
朝昼晩の食事どきも含め、
返事が来ても返って来なくても、
職員、患者、ほぼ全員にだ。
迷惑そうな顔をする人には辞めている。
その中で、
食事で同席の彼女だけ挨拶をしない。
視線すら向けない。
これは単なるイジメじゃあ無いのか?
僕はその事を何度も何度も、
聖天様、仏様に問うた。
しかし、返事は無く、
僕とレム睡眠君の判断は、「無視」だった。
もしこのまま仲直りしても、
彼女の悪口綺語を直す力は僕には無く、
むしろ彼女を更に、
怒らせる事になるに違いない。
彼女は心臓も良くない様だし、
あの躁鬱症状の症状は、
以前話した様に父で経験済みだ。
もし血圧さえも高いと言うのなら、
倒れる可能性もある。
結論はやはり無視だ。
僕が無視する事により、
僕が彼女から居なくなるのだ。
70代のαさんの老後に、
これ以上の負担になるべきではない。
(と言う表現は、彼女が最近嵌っているらしき、
韓流に良くある表現だ。)
「無視」
だがこれは思う以上に僕の負担になった。
こんな非合理な形で無視をしているのは、
流石にαさんの負担であるだろうとは思ったが、
実は僕の負担にもなった。
血液サラサラの薬を飲んでいるぼくは、
特に昼食前後にハイテンションになるらしく、
無視された彼女は、
なりふり構わず嫌がらせをし、
攻撃をしてくる。
一度はあまりのハイテンションに不安になり、
部屋に看護婦さんを呼んだ事もある。
魔である。
ここでこの「無視」を辞めれば、
どれだけ楽になるか知らない。
時々僕は叫びたくなる。
仏様、
僕が何をしたと言うのでしょう?
元々僕は
某国の7000万の民、
日本国の1億6000万の民、
その他アジア、アメリカ、ヨーロッパの若干名から、
無視されて来た。
実母にすら。
それなのに、
1人の老女を信仰の為に無視する事が出来ない。
これは何なのでしょう?
僕は頭に来て、
彼女の背後にある恨みの民に
この茶番劇の目的を直接聴きたくなった。
何故文句があるのなら、
直接僕に言って来ないのか?
何故この老女の負担を増やすのか?
ああでもその後、
その僕のハイテンションはそれから日々収まり、
少なくともαさんは僕の視界から消えつつある。
本件は、進行形であるが、
もうこれ以上続け無い。
無視が正しい導きであって欲しい。
この章の最後に仏様はこう言っている。
親にさえ見殺しにされた僕には、
最大の生きる支えだ!
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ああこの身体は間もなく
地上に横たわるであろう
意識を失い
無用の木切れの様に投げ捨てられて
憎む人が
憎む人に対し
恨む人が
恨む人に対して
どの様な事をしようとも
邪な事を目指している心は
それよりも酷いことをする
母も父も
その他親族がしてくれるよりも
更に優れた事を
正しく向けられた心がしてくれる
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合掌
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