
出家
先月の末、僕は頭を丸坊主にした。
「丸刈り(まるがり、丸刈)とは、頭髪を全体的に短い長さに刈る髪型。坊主刈り(ぼうずがり)、坊主頭(ぼうずあたま)、丸坊主(まるぼうず)とも言う。」Wikipedia
何故、やったのか?正直言ってわからない。太郎事件などがあったからではない。大声で怒鳴ったら食事を抜こうと決めたからではない。もう少し前に突然やりたくなった。
今日現在、1級障害者の僕は、毎日、読経或いは念珠を朝夕2回行っている。病気で倒れる前にもやっていたが、あの勢いは無理だ。体力の衰えをあからさまに感じている。体の半分が麻痺している分、呼吸が苦しい。5回の真言も、4回で息継ぎだ。今日も、唱えていて、居眠りだ。
毎日毎日、取っ掛かりが違う感じがしているのだ。勤行を雨法院の和尚様から頂いているので、これに沿って、午前中に勤行の真言と観音経、般若心経などお経を1時間半、午後に少し量を落として50分、午後は般若理趣を毎日読むと良いと言われた100字偈を読んでいる。今の所これで精一杯だ。
それと、日曜日は写経をしている。主に般若心経だが、観音経も写経している。
僕の唱える聖天様は、毎月1日と16がご縁日になっており、その日は祭壇を片ずけ、仏具を水拭き或いは、アルコール拭きしている。勤行にはこの日は出来るだけ精進することとあり、今月からご縁日には肉魚を避けることにした。
とは言え、この施設は病院なので、食べているものはかなり精進料理に近い。でも、厳密に精進料理を食べようとすると難しい。食べないしか無い。だって、殆どの食べ物には、調味料も含めて、食卓に至るまでに、なんらかの殺生をしていると思われるからだ。
昔、インド人
(主にヒンズー教)やインドネシア
人(主にイスラム教)、マレーシア人(イスラム教)と食事をして、彼等の食事に対する苦労は並大抵ではないなと思った。牛
豚
を食べちゃいけないとなると、メニューにそれが書いてある段階でダメだった。曜日によってダメなインド人もいた。多分一度でも間違いを起こすと彼等の人生を通して行っている信仰が台無しになるのだ。味の素が、インドネシアで起こした事件がいい例だ。
味の素追放事件
「2000年(平成12年)、インドネシアで、「味の素」の原料にイスラームで禁忌[注釈 7]とされている豚肉が使用されている疑いがあるという噂が流れた。材料として豚の成分を使用してはいなかったが、発酵菌の栄養源を作る過程で触媒として豚の酵素を使用していたために、現地法人の社長が逮捕され、味の素製品は同国の食料品店から姿を消した。同社は2001年(平成13年)2月に商品の回収を終了、触媒を変更したことにより販売許可(Halal)が下り、社長も釈放され、製造販売を再開した[23]。」Wikipedia
それを思うと日本人の精進は緩い様な気がするが、でもこちらは如何なる生き物、畜生全ての殺生をしないと言う点においてずば抜けている。限定された動物だけでは無い。そこが違う。何しろ貴方は、下手すれば転生してその畜生になるやも知れない。
ただ日本人の技術力は、何が殺生で何が殺生でないかわからないくらい全ての分野で高度になっている。悲しい。ますます、仏様への信仰が、真実が問われる時代だ。
それはともかく、あと心掛けている事と言えばこれだ。過去の悪行を座げしつつ、取り敢えずこの5つの五戒、そして次に十善戒を目指したい。
五戒(ごかい, サンスクリット語: pañcaśīla, パーリ語: pañcasīla[3][1])とは、仏教において性別を問わず、在家信者が守るべき基本的な五つの戒(シーラ)のこと。
- 不殺生戒(ふせっしょうかい, 梵: prāṇātipātāt prativirataḥ[4]) - 生き物を故意に殺してはならない[5]。
- 不偸盗戒(ふちゅうとうかい, 梵: adattādānāt prativirataḥ[4]) - 他人のものを盗んではいけない[5]。
- 不邪淫戒(ふじゃいんかい, 梵: kāma-mithyācārāt prativirataḥ[4]) - 不道徳な性行為を行ってはならない[5]。
- 不妄語戒(ふもうごかい, 梵: mṛṣāvādāt prativirataḥ[4]) - 嘘をついてはいけない[5]。
- 不飲酒戒(ふおんじゅかい, 梵: surāmaireya-madyapramāda-sthānāt prativirataḥ[4]) - 酒類を飲んではならない[5]。
昔はともかく、病気になってからは、五戒には自信がある。虫一つ殺さず、自慰行為すらしていない。此処では取り上げないが、十善戒もそろそろ射程に入った。もうここまで来たら、丸坊主になるしか無いじゃないか?
頭を丸めるとは
「古来より仏教では、己への戒めとして「頭を丸める」ことは悟りの境地へ達する"解脱"への第一歩とされていた。剃髪の由来は釈迦に倣ったもので、古代インドでは頭髪を剃るのは最大の恥辱とされており、重罪を犯した者に対する一種の刑罰であったが、釈迦は自らの解脱のため進んで剃髪し、それに弟子たちも従ったものである。」Wikipedia
最大の恥辱は、悟りの境地へ達する"解脱"への第一歩である。僕の為にある言葉じゃないか?君。
合掌



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