集諦は我々の病気の原因です。そして、肉体的にも精神的にもそれは欲の集積ということが言えます。肝臓が悪くなれば、それは永年のアルコールの摂取の積み重ねであるし、糖尿病になれば、それは積年の贅沢な食生活に起因するのでしょう。肺がんになれば、やはり習慣的な喫煙ということがよく言われる。生活習慣病とは正にこの集諦のことで、あらゆる苦諦は、その人間の欲望という習慣集積の結果ともいえます。
ただ、ここで思うのは、そこに個人差がある。どれだけ飲酒を重ねても肝臓を悪くしない人もいる。ボイラーのように喫煙する人でも、肺は綺麗だという人もいる。それはその人の体力、体質のせいかもしれないが、不平等だとも思う。という事は、どれだけ欲望の激しい人も苦諦に陥らない場合もあるのではないか?
しかし、お釈迦様のみつけた真理は、この人間の不平等ということにも実によく配慮している。だから一見特有の具体例のような内容の説法にも普遍性があります。
そもそも、人生は期限があり、終末があることにおいては、全ての人に平等であり、そして、どんなに華やかな人生にも暗転の日が来ることは誰しも納得するところです。その期間において、長さにおいて不平等ではありますが、よい時間が長ければ長いほど、その思い出に苦しことも大きく、終活とは正に、この時点において行うものではないか思っていますがこれは余談です。
現代社会において、宗教をおおっぴらに語ることは実に控えめです。誰が何の宗教を信じているのかもわからず、自分の祖先が何を信じているのかもよく分からない。オウム心理教の事件も含め、宗教をしているというとどこか色眼鏡です。そのかわり、現代社会の精神支柱は”愛”です。家族愛、夫婦愛、親子愛、恋愛、愛を含む言葉は、変換候補なしにすぐに変換されます。愛と言う信仰があるといってもよい。愛と感動の云々は必ず涙を呼び起こす。ところが十二因縁でもあったように、仏教において、この愛に対する観念は実に、ドライというほかはありません。愛とは苦の因に他ならないというのです。また激しい愛は、転じて、激しい憎でもあるというのです。
愛欲と性欲はどう違うのか分かりませんし誰かに教えてもらいたいところです。愛のない、性欲の成就は誰からも基本疎まれるところかと思いますし、私の人生の失敗も正にそこにありました。そしてお釈迦さまはこれが、集諦の一つであると説くのです。
人間として生活をしていれば、どこかで人生に疲れ、自分を癒してくれる楽園に行きたいと考えるのでしょう。現世では、もうこれ以上何をしても無理だとの諦めもあります。
あらゆる自らの罪が、苦諦が重なって、にっちもさっちもいかなくなった時に、人は消えてなくなりたいと考えます。死にたいという人もいるでしょう。「私は貝になりたい」という映画がありました。自分と言う存在を消したいと考えるのは当然、人生が良い時に起こる病状ではないと思います。
苦諦は、今までに勉強した十二因縁、貪瞋痴といった煩悩もまた大きな要素として含まれるものです。
合掌
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