バチが当たる

 

バチは覿面に当たると思います。

当然仏様を信じる人でも、

キリスト教を信じる人でも、

イスラム教でも同じです。

何かに人為的に力をかけたら、それだけでバランスが崩れます。

人間は、他の動物と違って、思った事を実現する事が出来る唯一の生き物ですから、逆に言えば、ほんの小さな変化でも、結果が付き纏います。

人が自分の意志で世の中を変えれば、それはある一定の期間を持って自分に帰ります。それは予想し難い形なので、バチが当たったと言います。

 

「バチとは

撥(ばち)とは、弦楽器の弦をはじく(引っ掛けて離す、または打つ)ために用いる棒状の道具である。 桴・枹(ばち、Percussion mallet)は、楽器という点では共通だが、打楽器を叩く棒である。」

 

いい事をしても、悪いことをしてもバチは当たるのです。そこが昨年2週間、右半身麻痺によって放置されていた時に、教えられた事です。「ただ悪い事をしたらバチが当たるように、人が人に働きかける事が出来る」と言うのが大間違いです。人には全く無理です。もしその時出来た様に見えても因果は応報するからです。「自分の力を見せよう」「お前を捩じ伏せてやろう」その時は出来た様に見えるかも知れません。がいつか、貴方に返ってきます。大きければ大きいだけ。だからいい事をすれば、いい事が返ってくるのも説明がつくのです。この人だけなんて、都合のいい事が出来る訳がない。

 

私達が、地球を🌏見る様に、人の死を見る様に、動物の生態系を学ぶ様に、四季の移ろいを味会う様に、バチ、というより因果応報は当たり前の様にあり、だから、この事を理解させ、その中で人間が爽やかな心で生きていく事を教えていくのが、宗教でしょう。爽果爽報の心構えこそ、自らの周りにバチを残さないのです。

 

私はこの思いで、いい事をしようとして生きてみました。

ウェットティッシュを使う時、このビニールを手で開けるのは右手が麻痺した場合大変です。薬の袋なども同様です。人に頼らず自分で開けるのが、私の病院でのポリシーですから、口にマスクを汚れない様に当て、嚙みちぎりました。私は、爽やかな思いで、この行為をしているつもりでした。

ところがこの前、車椅子から立ち上がる時、危うく、この口で嚙みちぎったビニールに足を滑らせるところでした。

私はそのビニールの嚙みちぎった切れ端の始末を怠っていました。

この些末な出来事ひとつとっても、

バチは誰にでも帰ってくる事が分かります。

バチに人格は無いのです。

それを教えるのが仏様、神様です。

 

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