住宅
子供の時、アパートに住んでいた。50年前だ。
西武池袋線の桜台に向かう線路沿いに住んでいた。
2階建てに、4世帯が住むアパートで、
1階にお婆さんの一人暮らしと、何人いたか覚えていない大世帯、
2階はウチと後もう一世帯あったと思うが、
これも、どうしても思い出せない。
お婆さんは何時も、炊いた米を練り、それを窓ガラスに
貼り付けていた。正直何をしていたのかよくわからない。
大世帯は、トイレがあるのに家の前の敷地で用を足して
いた。うちを目の敵にしており、うちの母はキツネみたいな、
女と呼ばれていた。
ここでの思い出は、自転車と録音テープだ。
補助輪がついているにもかかわらず、恐る恐る自転車を
漕ぐ僕の写真は未だに家の応接に置いてある。
そして父が買ったTEACの録音機。
あれには随分と投資をしたようだ。
そこには僕の泣き声、笑い声が収められており、
背後に、西武池袋線の車輪が幾度となく響いた。
お風呂は当然、近くの銭湯に通っていた。
小さい頃は貧しかったんだなあと思う。
トイレも汲み取り式で、
何せ例の大世帯の一家は、
赤ん坊をトイレに落として、
死なしてしまったのだ。
貧しさと、隣りあい、犇めき合う感じだ。
小学校に入るか、入った後か、
父はクジ引きに当たって、
僕たちは東久留米の公団、
東久留米団地に引っ越した。
5階建の肌色の団地。
お風呂も内風呂だった。
初めて電車に乗って小学校に通った。
そうやって、生活がどんどん良くなっていった。
その次は同じ東久留米市の分譲の、滝山団地で、
広さも4LDKあった。
団地と団地の間に芝生の広い緑地があって、
結局ものにはならなかったが、
女の子に告白しようと待ち伏せしたもんだ。
そして今、埼玉県の奥地ではあるが、一戸建ての白い家。
まず上の妹が家を出て仕事を始め、
次に僕が大学に通うのが大変で家を出て下宿を始め、
次に父と母が、離婚し、父が家を出て
つい数年前2番目の妹が家を出た。
僕は欲深く、更に生活を良くしようとし失敗し、
行くところもなく家に戻り、
去年脳出血で倒れ、また家を出た。
こうして、今はただ母一人だ。
かつて女狐と呼ばれた母も、
お気に入りの庭に出て、
猫三匹と、人間ひとりぼっちで、
花を、
池を、
土を弄る日々である。
頼むから電話を📞取ってくれ。女狐。
合掌
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