許してほしいこと

 

大乗仏教の方便とは何か?
菩提心を因とし、大悲を根とし、方便を究竟とす。
私のようにどうしようもなく愚かな悪業に塗れたものに、通俗平易の低い教えから始めて、最後に最高の教理に導くものである。

正直に申します。

人を呪いました。

あのことがあって、浦島太郎よろしく日本に帰ってきて、
ただただ毎日恐ろしく、未だ死ぬる方法ばかり考えておりました。

階段の踊り場から落ちれば、どの打ちどころで死ねるか?
台所のどの包丁の切れ味が一番良いかと思いながら、枕の下に置いて寝ました。

しかし、死ぬことは以前散々考えましたので、どうにも良い案が浮かばず、
打つ手もなく、そのうち窓の外を眺めて暮らすようになりました。

すると月が毎日綺麗で、その月が天候によって見えたり見えなかったりすることに気が付きました。

また、月が日によって形を変えることに気が付き、特に新月や満月の日に願い事をすると、願いが叶うということをグーグルが教えてくれました。

私の中で今まで忘れていた怒りの感情が蘇り、ついこの前まで一緒に暮らしていた
牛に餌をやる女と、その夫子供を呪うことを思いつきました。

また、その前の内妻、その前の本妻、或は、この30年間私の虚構の人生に登場した人々、合計で100人は超えておりましたが、かれらを呪うことを考えるようになりました。

「人を呪えば穴二つ」その言葉を何度も無視しながら、私はまず、まじないで人を呪うことを考え、書籍を購入し、実践しました。

藁人形と、五寸釘はアマゾンで三回買いましたが、近くに適当な神社もなく、朝の二時に起きることも出来ず、挫折しました。この前、アマゾンから商品のレビューを書いてくれと依頼をうけました。

呪う相手の名前を書いて燃やすことも何回もしました。そのお蔭で、家を燃やしかけ、あやうく年老いた母が発見して大事に至りませんでした。

呪う相手の写真を切り刻んだり、燃やしたり、踏みつけたりしましたが、フィルムが高いので止めました。

塩呪いといって、願い事を紙に書いて、塩をまぶしてトイレに捨てるという呪いをしましたが、呪う相手が多すぎて、何度もトイレの水を流した結果、水道代だけが高騰しました。もし、あれがうまく行っていれば、その被害は甚大で、数百万の死者が出たはずですが、どうもその気配はありません。

何より、その結果が見えないのが不満でした。

段々と呪いに対して不信感が湧き、そうこうするうちに修験道の呪術本を買い、方針を転換しました。
九字を切ったり、人型を作ったり、それに針をさしたり、燃やしたり、気が付くと今までの呪いとやっていることはあまり変わりませんでした。

ところが、修験道で聞いたことのないおかしな呪文を度々唱えたり、見たこともない字を書いてそれをお守りにしたりすることがあり、私も何度かそれをやってみました。そしてそれが密教の真言であり、梵字であることを知ったのです。

昔は修験道行者が沢山いて、仏教寺院に出入りし、仏教と民衆の接点のような役割をしていたとのことでした。どおりで、その呪術には、不動明王やら、摩利支天やらが登場するはずです。

そこから私は密教に目を向けるようになりました。
密教の手印を覚え、真言を唱え、陀羅尼を暗唱しました。もともと暗記が苦手な私が、長い陀羅尼を暗唱すると何とも言い難い、達成感があり、佛頂尊勝陀羅尼、宝筐院陀羅尼、孔雀明王の陀羅尼などを次々と暗唱し、当初の目的であった、人を呪うことが疎かになりました。それらは、悪魔から身を守る、という防御の陀羅尼、真言だったのです。

いえいえ、そうではありません。その間もしっかり密教の呪術を勉強していました。調伏と言って、人を亡き者にする、呪いをいくつも覚え実践しました。結果が分かりませんが、かすり傷くらいは負わせたかもしれません。すみません。

以前にも述べましたが、般若心経をジャムの瓶に詰め、そこに呪いの四字熟語を羅列し、母自慢の庭に夜な夜な何本も埋めたお蔭で、般若心経を手本なしで写経出来るようになりました。

この頃、考えました。
人を呪うのは難しい。何故なら、自分の拙い呪力のエネルギー量を考えると、それを100人、1000人、1万人、1億人に振り向けることは無理ではないか?と。それなら、自分一人を守るために祈るのがエネルギー効率からいってもベターであると。

そこで、私は一切の呪術を断ち切り、まずは、孔雀明王、そして、ご利益のある仏様をどんどん増やし、毎日
お祈りをするようになりました。その頃、一日6時間くらいお祈りをしていたのです。それは自分のためです。
自分がこれから先も、悪魔に捕まらないためでした。

そして、ここに聖天様信仰のご縁ができました。
そしてこの聖天様については、信仰のマニュアルまで出版されていました。
そこには衝撃の事実が書いておりました。
仏教には様々なご利益のある諸天がおられるが、それは何より仏教に教化するための方便であるから、ご利益だけ求め、単体で、拝んでも意味がないと。

暗記した、雑密の真言、陀羅尼、般若心経、観音経、全ては仏教、密教の教えの為にあったのです。
そして、それは自分の為だけに祈るのではなく、その功徳を衆生に回向し、大いなる慈悲心をもって
この世のあらゆる人々に向けることでした。

願わくは、この功徳を以って 普く一切に及ぼし 我等と衆生と 皆共に仏道を成ぜんことを

ここでおさらいします。
まずは、ここでどう死ぬるか検討しました。
次に月に祈ることをしました。
次に人を呪う呪いをしました。
次に修験道の呪術を学びました。
そこから仏教の呪術、密教の真言、陀羅尼に出会いました。
沢山の人を呪うより、自分一人の救済を願うのが得策と方向転換しました。
ご利益のある、諸天の真言を毎日6時間唱えました。
聖天様にご縁を授かりました。
ご利益主義で暗記した真言、陀羅尼、お経は悉く勤行で使うことが出来ました。
そして、自分だけのために祈るのではなく、多くの衆生のために祈る大乗仏教の船に今乗っているのです。
もうお分かりになりましたでしょうか?

大乗仏教の方便とは何か?
菩提心を因とし、大悲を根とし、方便を究竟とす。
私のようにどうしようもなく愚かな悪業に塗れたものを、通俗平易の低い教えから始めて、最後に最高の教理に導くものである。

仏教の大いなる智慧に 合掌

 

 

 

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