#日常の中で感じる些細な幸せ
無の大晦日
○池波正太郎 名言・箴言
『鬼平犯科帳 二 谷中いろは茶屋』
「人間というやつ、遊びながらはたらく生きものさ。
善事をおこないつつ、知らぬうちに悪事をやってのける。
悪事をはたらきつつ、知らず識らず善事をたのしむ。
これが人間だわさ」
○「反芻(はんすう、rumination)は、ウシ目の哺乳類の一部が行う食物の摂取方法。まず食物(通常は植物)を口で咀嚼し、反芻胃に送って部分的に消化した後、再び口に戻して咀嚼する、という過程を繰り返すことで食物を消化する。」Wiki
今日は大晦日。今日も欲望について考えたい。
上の二つの事柄は、一見全く関係ない事のように感じる。しかし、僕には近い事柄に見えて仕方がない。先ずはそこから入る。
僕は鬼平犯科帖が大好きで、以前何冊も読んだ。その中で、この平蔵が言っている内容が特に心に残った。その時は、しかし、あまり深く考えていなかった。仏教を勉強していなかったので、知識に背骨が無かった。今、こうして見ると、「善事をしながら悪事をし、悪事をしながら善事を行う。」これこそが大いなる人間の欲望のように思える。どんなに悪い人でも、善事で自分のバランスを取り、またその逆もまたしかりである。ただ悪事をよく行った方が、善事をする生活の余裕ができるので、悪事をしながら善事をするとなる。逆に善事をしながら悪事をしようとすると、善事は生活の余裕を生まない場合が多いので、悪事に首が回らなくなるのも事実である。
人はこの二事を意識し、人生を歩んでいく。中には立派な人がいて、「悪には手を染めない」「嘘をつかない」と言う事を実践している人もいるだろう。でも、大概の日本人は、社会と言うものの中にいて、大なり小なり、「知らぬうちに悪事をやってのける」筈だ。
❶意識して善事を行う
❷意識せず善事を行う
❸意識して悪事を行う
❹意識せず悪事を行う
人間以外の動物は、意識しても意識せずも無く自分の命の存続の為に生きる。そこに罪の意識などあろう筈がない。だが、人間のやる事は場合によっては影響が大きい。そんな力を人間に与えたのだから、仏様常に人間に伝え無くてはいけない。
おまえの成功は無で、
おまえの失敗も無だ、
お前はいつか無に戻る。覆水盆に返らず、そう信じて命を耕すのだ。ただ、黙々と人間として生きよ、と。
この事自体を理解するのは、あまり難しくない。何故なら人間は、この能力によって余裕があるから、いつか余裕が主体の人生を良しとしてしまう。その余裕の上に善事、悪事をしていると考えれば、怖い物はない。自らを神様と呼ぶ者もいるだろう。
もう一つ、反芻である。
私は、この言葉を調べても仏教の言葉でも無く、ただ動物の一つの食物の消化方法なのだが、私が仏教のを考える時、何故かこの言葉が出てくる。逆説なのかなと調べてみた。
「未生無(みしょうむ)
原因が無いとき、結果は生じて無いということ。
已滅無(いめつむ)
過去にあったが滅したものは、すでに無いということ。
不会無(ふえむ)
今この場所に無いということ。
更互無(こうごむ)
AはBでは無い、BはAでは無いということ。
畢竟無(ひっきょうむ)
過去に無く、未来に無く、現在にも無いということ。存在し得無いこと。」Wiki
人間とは、いつか居なくなるものである。今得たものを子供に残そうとしたりするが、全く無意味な事は、分かっている。分かっているのにやってしまう事が人間の悲しい所であって、無に帰するべきところである。
「パラドックス(paradox)とは、正しそうな前提と、妥当に思える推論から、受け入れがたい結論が得られる事を指す言葉である。逆説、背理、逆理とも言われる。
パラドックスと呼ばれるものの一般的な構造(左側)、そして解決の基本的な三つのパターン(右側)[1]。図では示されていないが、前提には明示されるものと、そうでないものがある。パラドックスを取り扱う際は、明示されていない前提にも注意を払っていく必要がある。」Wiki
本年最後の日、僕の生活は大きく変わった。半身不随の絶望の中、偽りの妻はここに一度も来ない。この状況になって、自分の欲望はこれだと思うものが、小さくなった。今まで、積み上げた、子供や会社、愛人は、何だったのか?これが無。無なのに私は、ほんの小さな事にも喜びを感じられる。一日中、文章を書いて大忙しだ。こんな時間が欲しかった。不思議だ。無。反芻を一日中やっても、幸せを感じそうだ。
よいお年を
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