お酒🍶🥃を飲まなくなる日

 

よく計画的な殺人と、衝動的な殺人というが、計画的と言えば僕の場合、長期に渡って複数の悪人によって施行された。そのスタートこそ大学時代であり、それは巧妙に一気飲みに似せて仕立て上げられた。お酒問屋の🍶🥃忘年会が先輩に企画されたところで、おかしかったのである。いくらお金持ちでも、あの高い酒をあんなにタダで飲めるわけがない。高校の時友人と、樹氷や電気ブランを飲んでいた者にとって、豊かさの格差が違い過ぎる。お酒問屋の先輩は本当にいい人であった。それだけに最後は残念だった。

 

それから30年、私は健康状態を常に密かにチェックされ、あまりにも行き過ぎた時は補正がかかったのだろう。幸い、私はたまたま酒に強く、50歳を過ぎるまで何事も無かった。タバコを吸わないので、管理値を絞る事が出来た。華といた時、目の調子が悪い事があった。飛蚊症で、目の前を蚊が飛び回っていた。私は糖尿を疑った。この国で最高の病院に行って調べた。(何故か行けた。)日本語が喋れない医者では困るので、日本語の喋れる医者をお願いした。みてくれた年配の女性の医者は、どう考えても日本人ではない。通訳はどうしたのか聞くと、彼女は流暢な日本語で言った。「一体どうしましたか?」先生は、日本語が喋れる上に、日本の大阪大学を出ていた。しかも、この病院の眼科のGMだった。予約もせずにこれは無い。でも僕は自分の目が心配で疑う暇も無い。ありとあらゆる検査を受けた末、やはり流暢な日本語で「気にするな!」と言われた。もう病院に来なくても良いと。ただ、健康には留意して野菜中心🥬の食事を取れと。

 

そして、その翌日から華が野菜主体の食事を作ってくれたのである。アヴォガドとキールやセロリ、人参、グリーンサラダ主体の毎日が初まったのである。クラブのダンスガール💃の華には、信じられない豹変ぶりである。ここまでされても、自分の待遇が良いものか、悪いものか分からない。一年くらいであろうか?サラダの生活は?以降、僕の健康状態への介入に関して、これほど大きな修正があったのは、この時が初めてで、最後だった。以降、最後の餅米責めに会うまでは、何事も無かったのである。

 

華について言えば、付き合い始めた時、僕の側にも「お酒が飲める子」と言うコンセプトがあった。僕の人生の中では珍しく自分のコンセプトにある程度あった「お好みどうり」の子だったのだろう。無理な欲望とは得てして、一見お好みどうりであるものらしい。

 

終わりの5年くらい、デパートの上階にOUTBACKがあって、休みの日にここの窓際から華と、ステーキ🥩ビール🍺カクテル等を食しながら、「人生を満喫する」「お酒が上手い」とはこの事なんだなと思った。自分はラッキーで、誰も僕を邪魔するものは無く、こんな生活がいつまでも続けば良いと思った。欲望とは、こうしていつまでも続いて欲しいと思うものなのだろう?そしていつかガツンと、思い知らされるものなんだろう。

 

もうお酒の話はいいだろう。

自分が、お酒を辞める人間になるとは、思わなかった。

だが人間はいつか自分の思わぬものになり、

そして死んでいくのだろう。

時間をかけて、

じっくりと…

 

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