酒という虚構

 

2回、ゴルフの話をして、お酒の話に入りたい。

昨日は金曜日で売春買春の話であったが、我々人間には無くても生きて行けそうなものが非常に多い。お酒はその代表格だ。僕には、お酒の依存症になっている意識は全くない。実際そう診断された事も無いし、3年前、外国にいた時は、まあ良く飲んだと思うが、だからと言って、酒に振り回されていると言う意識はない。

でも、今回倒れた一因は明らかにお酒だ。

僕のお酒は、食事に付随するお酒なのだ。

高校の時、お酒を飲み始め、これは呑んでも何ら美味しいものではなく、気持ち悪くなるだけと正直に思った。ただ高校時代の友人が格闘家で、酒をこよなく愛する男で(其の割には、水も一緒に飲んで、我々にアドバンテージを設けていたが)、彼の指導で豊島園のジェットコースターに樹氷を飲みながら乗ったりして、回転しながら、吐瀉しまくったりしたので、これが正しい飲み方なのかと思った。美味しくもないのに美味しいフリをする。これがお酒だと理解した。また、化学の授業では、1番後ろの席で、焼酎にファンタグレープ🍇を混ぜ、飲んだりして、分かったのは、僕みたいな優男でも箔がつくと言う事である。たしかに美味しくも何ともない。でも回りの人の僕らを見る目は明らかに違う。これは、イジメの多い高校生活にとって重要なアドバンテージである。

ただ一つ気がついたのは、酒無しにファンタグレープを飲んでもそんなに飲めないが、酒を混ぜていると何故か大量に飲めると言う事。そして、酒に慣れると、機嫌が良くなると言う事である。

 

思うに僕達は、酒に限らず、大人になるに従って人と合わせると言う事を学ぶのではないか?そしていつしか、それを「美味しい」と表現しているのではないか?タバコは吸わないので分からないが、コーヒーとか、〜とか、似た傾向にある。嗜好品と言えば、それまでだが。

 

大学に入ると、サークルと言うのがあり、お酒飲みはますますエスカレートする。今検索して見ると、今もこの犠牲者は多いみたいだが、あの頃、35年前は、社会の厳しい声も少なかったので大変だった。ブレーキが聞かなかった。ところが、上記のとうり、高校の時、訓練実習の終わっていた僕は、それ程辛くはなかった。それでも、家が酒屋の先輩の家に年末年始泊まる時は、覚悟が必要ではあったが。

 

で、この時から学んだのは、飲むと言う事は、其の前に食べて置いた方が良いと言う事である。特に油っこいものをだ。確かにそうすると酒が水みたいに飲めるようになり、いくらでも飲めるようになるのは事実だ。ポテト🍟チップスなどを良く食べる様になる。肉の🥩脂身、カタカナ料理、これらで肝臓を守って置けば、酒はいくらでもいける。でも、肝臓を守っていると言うのは大いなる間違いではないか?むしろ、この方法で、脂料理を共犯に引き込んでいると言う現実が正しくないか?酒だけ飲んで、僕はお酒が弱いんだと分かれば、そこで終わりなのに、こうしたら肝臓が強く見えるなんて方法を(実際に強いわけではないのに)習い、脂ものを余分に食べる様になれば其のツケはいつか回って来るではないか?それが今の僕だ。

 

今病院にいて、

人に、「お前酒飲みたくねえ🍶?」と訊かれれば、勿論飲みたいが、体がヤバいからねと答える。でも何となく飲みたくもあり、それ程切迫もしていない。この中途半端な感情こそが、人間の欲望の本質じゃあないか?

 

次回も続く

 

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