僕の人生の中に、一番大切なのは個性である。


人は一人一人違い、同じ人間はいない。顔や声から始めって性格までそうだ。つまり、人は何もしなくでも、生きているだけで個性を持っているのである。

ある人は、人々が個性に憧れるなどと言われているのが事実かどうか疑わしいと思う。と言うのは、多くの人はむしろ個性の強い人間に成るのを恐れていると見えるからである。会議を出席している人は、自分の本当の意見を言う前に、周囲の人達がどう言う意見を持っているかを知ろうとする。個性など出して、彼奴は変わった奴だとか、突飛な人間だとか思われるのを恐れている。流行りもそうだ。他の人がどんな服装をしているかに注目し、それから自分の身づくろいを定めようとする。流行りに乗るためには個
性は邪魔物でしかない。

個性を主張しようとすると、まず必要なの勇気である。自分の性格をこうだと決め付けて、悲観したり見限ったりする前に、自分を見つめる操作が必要である。また、自分をあまり高く見積もり、他人の前で自分を誇ってみせたりせず、まず自分がどう言う人間であるかを見定めることも大切である。自分が掴めたら、そこから先はその自分を大切にしていくのが、本当に個性ある人だろう。

僕の心の底には常に人と違いたい、個性的であろうと言う欲求を抱いている。本当の個性は、他人を追うものでなく、自分の中に探し求めるものだ。今一番大事なのは、このじっくりとした行為である。

自分の一番親しい友達と言うものはどう言う友達であるか。僕の考えによると、一番親しい友達と言うのは、一番深い孤独を与えてくれる友達だ。

友達を結んだ時の経験をとくと考えてみると分かるように、昨日まで他人であった人間といきなり親しくなる。あるいは徐々に親しくなる。そう言う場合、何が機縁となって親しくなるかと言えば、言うまでもなくお互いに似たような運命や問題を持っていることだ。かえって、お互いにその問題は分からない。つまりお互いに未知の世界の前に立っている。

その門口で心が触れ合った時、初めて友情と言うものが結ばれるのである。お互いに相手の考え方や運命が分かってしまったら、どうか僕らは友達になれないだろう。どうにも解決のできない様々の世界を持っているからこそ友達になるのだ。互いに見知らぬ二つの生命の接触と燃焼と——この真剣な命の交差に友情は成り立つ。

僕らを甘やかしてくれる者は決して良友ではない。よく理解してくれようとすることは悪いことではないが、それだけで本当のいい友達にはなれない。だから、いい友達と言うものは、分からない所は何処までも分からないものとしてお互いに追究しあう。ある時は責めあう。つまり、意見の一致などと言うことはない。一つの問題に対してさえ、どんなに二人が異なるかを身をもって知らされるような友情、それが尊いのである。

表面だけで人と調子をあわせ、理解しあっているような顔をしている所に決して真の親しさは起こらない。だから、本当の 友情と言うものはかえって辛いものなのだ
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