こんにちは。
ffの弟です。

兄は8月7日21時39分に逝去いたしました事をご報告させていただきます。
享年44歳でした。

生前から、自分が逝った後のこのブログの締めくくりを兄から頼まれており、兄に代わり兄の最後の7日間をここに記させていただきます。

兄の様に事実のみを端的に記すべきか迷いましたが、兄にこのブログの締めくくりを頼まれた弟である私の思いも共に綴らせていただきました。結果かなりの長文となってしまいましたがどうかご容赦ください。


◆入院15日目、8月1日(木)

朝は昨日母が作ってきた小さなおにぎりを朝食代わりに食べる。

入浴もさせてもらえたとの事。この頃の入浴は台に横たわって洗って頂くもの。やはり気持ち良いと。
その後ガリガリ君を食べられたと言っていた。

ジャンクなカップラーメンが食べたいと言うので、六角家とだるまのカップラーメンを購入し、18時半頃夕食代わりに兄弟二人で食べる。ほんの2、3口ずつだが、嬉しそうに啜っていた。
次は近くにある銀だこでたこ焼きを買ってこようと考えていた。

この日は割と、というより最後の調子が良さそうな日だった。


◆入院16日目、8月2日(金)

腹水を抜く。入院後3度目で、量は前回と同じく5リットル程。
母曰く、医師が週に一度腹水を抜く予定だと言っていたと。その言い方には親として不信感を禁じ得なかったとの事。
その後、体力が急激に衰える。医師と相談すると、抜くか抜かないかは兄に委ねると。正直、この段階の兄にどこまで判断できるのかは不安だし、委ねるというのは如何なものかと思う。しかしながら兄も自分で治療方針を決めてきたという事もあり、兄の思いをしっかり医師に伝えることが家族の役目だと感じる。

この頃には痛み(腰の張り、身の置きようの無さ)がかなりきつそうで、痛み止めの量もかなり増やしていた。朦朧として眠っている時間も多く、一緒にいても目をつぶっており、話しかけると目を開いて応える状況で、会話は可能。


◆入院17日目、8月3日(土)

17時頃病院に行く。
たこ焼きを持って行こうと思っていたが、食べられないとの事で断念。
初めて私がいつも通り「来たよー」と言って病室に入っても気づかず。
そのまま寝かせておくが、看護士さんが入ってきた時に目覚める。
朝も昼もほとんど食事は取れなかったとの事。夜の食事もキャンセルする。

常備している水とポカリは少しずつ口に入れている。喉が乾くと張り付くようになってしまい、辛いとの事。
ベッドの横、手を伸ばせば届くところに冷蔵庫があり、そこに飲み物を入れているが、自分で取るのは難しくなり、はじめにキャップを開けること(最初は固いので)は恐らくできない。

顔の黄疸も大分濃くなってきた。サイドテーブルに手鏡を置いていたので自分でも確認しいたと思うが、最近はあまり見ていないように思う。


◆入院18日目、8月4日(日)

17時頃病院に行く。
やはり食事は取れず、今後の食事を全てキャンセルする。
スイカバーを食べたとの事。冷たく水分のあるものは食べやすいようだ。

以前主治医の先生から、
「食事を取れなくなる時が来る。普通の病院では、点滴を入れたりして栄養を補給するが、ここ緩和病棟ではしないこともある。無理に入れても、体がそれを受け入れられない」
と聞いていたので、ついにその時が来てしまったかと思う。しかし家族としては、少しでも何か食べさせてあげたいと願う。
医療用の栄養価のあるドリンクを看護士さんに検討してもらう。


◆入院19日目、8月5日(月)

母が一日中付き添う。
70歳の母は病院まで2時間かかる中、足繁く通っている。
体力的にもかなりきつい筈だが、自分より先に旅立つ息子と過ごす日々は、言葉では表せない精神的辛さと思う。
それでも少しでも一緒にいる時間を持ちたい、少しでも話をしたいと、病院に通う。

熱いタオルで顔や体を拭いてやり、クリームを塗ってあげ(入院してから手や足のひび割れが酷くなり、ぱっくり割れている。薬のせいか、本人に痛みはない模様)、手足をさすってあげている姿を見ると、母の愛の深さを痛感する。
兄もこの母を残して先立つ事は無念であろうと思う。

この頃には痛み(腰の張り、身の置きようの無さ)がかなりきつそうで、痛み止めの量もかなり増やしていた。痛みが増してくるとナースコールで看護士さんを呼び、薬を増やしてもらう。朦朧として眠っている時間も多く、一緒にいても目をつぶっており、話しかけると目を開いて応える状況で、まだ会話は可能。
LINEを打つこともままならず(指先の乾燥、手に力が入らない、思考力の低下)、家族との連絡も難しくなる。


◆入院20日目、8月6日(火)

午前中から母が付き添う。
大分考える力も低下しており、先生と話をしたい為、弟の私を呼んで欲しいと兄が母に伝える。自分から家族を呼ぶのは非常に珍しい事。

私が13時頃到着。
先生と話すが、今できることは薬を調節しながら痛みをできるだけ軽くし、寝てる時間を増やしていくことだけとの事。
「この先どう過ごしていけばいいんですかねぇ」と先生に力無く尋ねていたことが悲しく、印象的であった。

誤飲が怖い為、水を飲む時にも看護士を呼ぶように言われる。益々不自由になる兄を不憫に思うも、家族がいる時は何でもしてあげようと思う。

この頃はもうトイレに行く事もできない為、オムツを着用している。
腎ろうも付いているが、尿意があるようで、トイレに行きたがる。
看護士さんにそのままして良い旨を伝えられるも、抵抗があると何度も言っていた。

兄とも話し、財布やカード、保険証等の貴重品を、今まで鍵付きの引き出しに入れていたが私が持って帰ることに。中を確認して私が持っている旨を伝えると、安心していた様子だった。

いつも通り帰る時に握手を交わす。ガサガサのヒビ割れた手ではあるが、力強く握り返してくる。
「来てくれてありがとね」
「また来るね」
これが私と兄との最後の会話となる。

私が仕事に戻った後、アイスを食べたいと言うので母がピノをひとつ口に入れてあげる。
その後しょっぱいものが食べたいと言うので、揚げおかきを3つ、ゆっくりとよく噛みながら食べる。「美味しいねぇ」と。
これが兄が最後に食べたものとなってしまった。

母が夜帰る際、
「明日はかーちゃん何時に来るの?早く来てね」と。
いつも家族を気遣う兄が、早く来て欲しがるのは初めての事。


◆入院21日目、8月7日(水)

昨日の兄の言葉もあり、母はいつもより早く10時頃病院に。
その頃、兄の部屋は先生と看護士さんとで騒然としている。

朝6時頃から痛みのせいでベッドの上に立ち上がったり、四つん這いになったり暴れていたとの事。

恐らくもっと前から苦痛に苦しんでいた事と思う。
看護師さん曰く、深夜12時には寝ていることを確認しているとの事。
12時から6時までの間で苦しみ始めたと推察されるが、そこは不明。少しでも短かったことを願う。

母が来た10時頃は、まだ柵に掴まって立ち上がろうとしたり、体を揺さぶったりしていた。
無意識で動いてしまっているので、意思の確認や疎通はできず。会話も全くできない。
看護師もずっとここに付いている訳にはいかないというので、10分待っても苦しんでいるようならナースコールを押してくれと、病室を去る。
人手の問題もあり、この病院の限界とも思うが、仮に今日母が居なかったら、家族が来れない他の患者さんだったらどうなるんだろうと思うと、胸が苦しくなる。

薬を投与し続けるも、なかなか思うように効かず、辛い時間を過ごさせてしまう。息子の苦しむ姿を目の当たりにした母も、さぞ辛かったと思う。

その後、3度に渡り母はナースコールを押し、都度痛み止めを足してもらう。
※兄と違い、薬の種類や量を伝えられずすみません。
恐らく3度目のナースコールの時、これ以上の薬は薬局まで取りに行かないとないとの事で、30分程待たされる。
なぜこれ程の病院にその薬がないのか疑問に思う。
その後、12時半頃から苦しむ事は無くなったが、目覚める事もなかった。

兄はできる限り一人暮らしの自宅での療養を望み、その時に訪問医と在宅介護のお世話になっていた。
その先生も介護士も素晴らしい方々で、兄が入院した後もどちらもプライベートでお見舞いにきてくれたほど。
言葉では言い表せないほど、感謝している。

特に兄をずっと見てくれてきた介護士の方から母に連絡があり、14時頃またお見舞いに来てくださるとの事。
来てくれるなり、クリームを塗ったり、乾いた兄の口の中を水を含ませたスポンジで潤わせてくれたり、髭を剃ってくれようとしたり、どうしてこの方はここまでしてくれるんだろうと思うほど、兄を労ってくださる。この方の献身的な介護を、我々家族は一生忘れない。
その方が今使っている薬を見た時に、「この薬は…」と呟いたことから、相当強い、恐らく最後の薬なんだろうと母は推測する。

18時頃まで兄の今の状態が続けば恐らく今日は大丈夫だろうからお帰り下さいと看護士さんに言われたので、母は18時に帰る予定とするが、私が18時過ぎに行けそうだったので私が来るまで待つことに。

私が18時半頃到着した時点では、兄は少し上を向き、口は半開きで浅い呼吸を繰り返していた。
痰のせいか喉から音がしている状態なので、一度看護士さんを呼んで痰の吸引をしてもらう。
その際呼吸が浅くなってきているとの事で、血圧を測ると、数時間前には上が120あった血圧が60、下は30に(正確な数字ではないかもしれません)下がっていた。

看護士さんに外に呼ばれ、呼ぶべき人がいたら呼んだ方が良いと伝えられる。
血圧が急激に下がっており、呼吸も非常に浅く、いつどうなるか分からない状態だと。
ただ、この状態で一週間いる患者さんもいるそうで、状況はなんとも言えないと。

取り急ぎ父を呼ぶ。この時19時15分頃。
私と母も今日は病院に泊まることとし、家族室の手配を依頼する。

兄の病室に戻り、兄に付き添う。
20時過ぎ、兄の呼吸がさっきまでと変わってきた気がすると母が言うので(正直私は気づいていなかった)ナースコールで看護士さんを呼ぶ。
先程までと明らかに事なり、今は顎だけで呼吸をしている状態と。呼び続けてくださいと。驚きと共に緊迫感が走る。
「とーちゃん今向かってるからね!」
「にーちゃんがんばって!」

その後間もなく呼吸が静かに止まる。
看護士さんに聞くと、呼吸も脈も止まったと。

母と私とで、最後に伝えたいことを思いつくままに耳元で叫ぶ。兄にまだ聞こえていると信じて。
「よくがんばったね」
「自慢の息子だったよ」
「大好きだよ」
「もう苦しまなくて済むからね」
「親のことは俺がちゃんと面倒見るから」
「何の心配もいらないからね」
「ゆっくり休んでね」
「ありがとうね、ありがとうね」

兄の呼吸が止まったのが恐らく20時20分頃だったかと思う。
先生を呼ぶ(死亡確認のため)と言って看護士さんが出たっきり戻ってこない。
30分後位だろうか、主治医の先生がいらっしゃる。一度家に帰ったが、戻ってきてくれたとの事。通常はこの時間だと当直医が死亡確認をするが、看護士さんが主治医に連絡した模様。思うところはあるが、配慮だったと捉える。

主治医曰く、死亡時刻は医師が死亡確認をした時刻になるとのこと。今行うか、父の到着を待つか尋ねられたので、父の到着を待つことにする。

21時20分頃、父が到着。
息子を看取ることができず、悔しかったことと思う。
また、家族全員、覚悟はしていたもののこんなに急にこの時が訪れるものかと信じられない思いであった。

21時39分、医師による死亡確認。

***************

癌の告知を受けてから、治療方針も全て自身で決め、絶対に家族に迷惑をかけまいと費用も全て自身で賄っていました。弟の私が見ても、本当に立派で尊敬できる兄でした。
最期のほんの数ヶ月間、我々家族のサポートがどうしても必要になった時も、『無理しないでね、すまないね、ありがとうね』と家族を気遣う心優しい兄でした。
弱音や泣き言は一度も言わず、本来慰めてあげるべき我々家族を、いつも慰めてくれていました。
短すぎる人生となってしまいましたが、『少しでも長く生きるのではなく、1日でも長く今までに近い生活を送りたい』という兄の希望は少なからず叶えられたのではないかと思います。

兄が自身の身仕舞いの準備を進める中で、このブログに自分のガンの記録を残していることを知らされました。
自分の死後も、もしかしたら役にたつかもしれないと。そして自分が旅立った後、ブログを締めくくってもらいたいと。

ブログを綴るうちに、想像以上に皆様に読んでいただいてることから、更新が辛くなってからも必死にメモを取り、できる限り続けていました。
兄のメモを見ると後半は筆跡も乱れており、文字を書く事も困難そうでした。
指先も乾燥、ひび割れによりスマホの操作も難しい中、苦労していたと思います。
兄の記録が、少しでも同じくガンと闘っている方々、また支えている家族の方々の参考となることを切に願っております。

最後に、兄が友人達に生前残した文章をご紹介させていただき、このブログを締めくくらせていただきます。

2019.8.12
ff 弟

***************
2016年2月末に、肺腺がんステージⅣの告知を受けて以降、闘病を続けて参りましたが、これを皆様がご覧になる頃には、残念ながらこの世にはいないでしょう。
ここ数年、不義理になってしまった方も多いと思いますが、どうかご容赦ください。

皆様のおかげで、自分の人生は満ち足りたものでした。
人より短い人生だったかもしれませんが、人より不幸な人生だったとは思いません。
殊に告知を受けてからの日々は殊更濃密で、生きることは何かを考えながらの日々だったように思います。

葬儀は親族と親しい身内のみで行わせていただいたかと思います。
死に顔は見られたくない、元気な時の姿だけ覚えていてほしいという、私個人の勝手な我儘によるところでございます。
その通りの希望を叶えてくれた家族を、何卒ご容赦ください。

以降も、家族にこれまでと変わらぬご交誼とご支援を賜りますようお願い申し上げます。
末尾になりましたが、皆様のご健勝をお祈り申し上げます。
***************