憲法で表現の自由は保証されている。
でも、公人と私人の発言の重さは全然違う。
何故なら、公人は、国だったら国、市だった市の代表者である。
公人の発言は、そのまま国の発言になる。
私たちが、全く意図して無くても、
世界から、日本人の男は、
慰安婦を認めていると思われる。
日本人は太平洋戦争で近隣諸国に攻めたのは
正しい事をしたのだと認識していると思われる。
今日のサンデーモーニングで、
歴史認識発言で、過ちを認めて先に進もうとしない事が、
世界から驚かれている。と言っていた。
未来に向かって進むと言うことは、
ある時間の一点で、立ち止まり、省みて
歩み出すことだと思う。
過ちがあったら、それを真摯に受け止めて
謝罪して、前に進む事だと思う。
簡単な話だ。
「ごめんなさい。申し訳なかった。
深く反省して歩んでいきます。
よろしくお願いします。」といって進めばいい話を、
「ごめんなさい。申し訳なかった。
深く反省して歩んでいきます。
よろしくお願いします。
でも、僕だけ悪いじゃ無いよ。
だってさ、だって、だって・・・・。」
と駄々をこねているとしか見えない。
少なからず、1945年8月15日を持って
人々は、戦争の悲惨さ、虚しさ、つらさを
痛感して、二度と戦争はしないぞ。と
思ったはずだ。
天皇陛下のお言葉の中にも
村山談話(自民党・社会党・さきがけ、当時の政府が決めた事)
その思いを世界中に発信したのだ。
私人である個人が
「自虐的歴史観」だというのは自由だ。
でも、公人の発言はそうはいかない。
その重さを十分に考えた方がいい。
一旦正式な形で、世界に向けて謝罪をしたのだから、
潔く、前に進んだ方がいい。
「でも、だってね・・・」を繰り返していたら、
「こいつらは、本当に謝っていなぞ。」と
思われ、世界から信用されなくなる。
その事こそ、
国益に反するのでは無いだろうか?