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自分勝手に徒然に

趣味のことを思い立ったがまま、徒然に、自分勝手に書いていきます。

僕の書きたいこと書こうと思います。

そんで最初は好きな歴史の人物のことをたたっと書いていこうかと思います。


最初に選んだのは司馬遷。

中国の漢帝国の時代、武帝に仕えた人物ですね。


司馬遷といえば、史記でしょう。

正式には『太史公書』といいます。


要は「太史公の記した歴史書」

と言う意味です。


太史公とはすなわち太史令という役職のことで、おそらく天文・暦・儀式を司るような官職のひとつだったと思います。


この太史令の役職は父司馬談も就いていた役職です。


司馬遷はこの父司馬談とある約束を交わします。

それは古今東西の英雄をまとめた歴史書を作成することでした。


これこそすなわち史記なのですが、この父との約束を果たすために司馬遷は当時の人生観からすると死ぬ以上につらい人生を歩むことになります。


それは「李陵の禍」というものです。


事の起こりは匈奴征伐でした。


武帝は寵妃の李夫人の兄李広利将軍に数万の軍勢で匈奴征伐を命じます。

そこへ李陵は別働隊として配下5000の兵で出陣を願い出た。


武帝はこれを承諾し、出陣した李陵は敵兵3万と遭遇するも弓などを巧みに操り1万の首級をあげる大活躍を見せる。


しかし、弓が尽きると更なる大兵力を動員した匈奴の前に降伏した。


今まで散々賛辞を贈っていた文官たちは降伏を聞くと李陵を非難したが、司馬遷のみ李陵の少数兵力ながら善戦して見せた武勇を褒め称えた。


しかし、これが思わぬ禍をもたらします。


武帝の肝いりだった李広利は数万もの兵を預かりながらたいした戦果を挙げておらず、「少数の兵力で」戦果を挙げた李陵と比較し、李広利を辱めたと考えられて捕まり、死刑か宮刑(男性器を切り取られて宦官になること)の選択を事実上迫られました。


当時の時代、宦官は人間と見られず、生き恥を晒して生きるようなもので、それこそ死を選ぶ事より躊躇われる時代でした。


しかし、ここで司馬遷は死刑ではなく宮刑を選択します。


他ならぬ父司馬談との約束を守るためだったのです。


そうして宦官になった司馬遷はなんと信じられないことにもう一度武帝の下に仕えます。


おそらく宮殿の書物等情報を得るためだったのでしょう。


死よりきつい選択を迫らされた人物であっても恥も外聞もなく利用した司馬遷はただ父との約束である歴史書の完成のためにそれこそ死に物狂いで歴史書を完成させます。


後の中国の歴史を語る上で史記は欠かせないものになります。


その書物を完成させたのは他ならぬ父への孝行の為だったと考えると頭が下がる思いがしますね。