今日は、第57代陽成天皇を譲位させ、「万世一系の天子の家」を隠した藤原基経の養父である「藤原良房」について考えてみました。(写真はネットから拝借しました)
1. 藤原良房について
(1)太政大臣宣下
「文徳天皇」は、857年に藤原良房を「太政大臣」に任じました。人臣最高の位です。藤原仲麻呂、道鏡に続いて、臣下として三人目の任命でした。そして、「文徳天皇」は「万世一系の天子」です。
(2)摂政の任命について
そして、その後「藤原良房」は、臣下として初めての「摂政」に任じられています。ただ、任命の年については、858年、866年と2つの考え方があるようです。
「文徳天皇」が崩御されたのが「858年」ですから、良房が858年に摂政に任命されたと考える場合は、皇位継承後間もない「清和天皇」によって任命されたということになります。清和天皇のお生まれは「850年」ですから、「8歳」で良房を摂政に任命したことになります。普通に考えると、8歳の子供にその判断は難しいと思われますので、おそらく先代の「文徳天皇」の御心だったのではないでしょうか。
2.「万世一系の天子」の「血」と「道」
藤原基経により、第57代「陽成天皇」が譲位させられ、「万世一系の天子の家」が隠されたことは伝えてきました。前回のブログでも再度検証しなおしたように、「万世一系の天子の家」に継承されていた「草薙剣」という証拠を持って、その血筋が隠されたと考えます。
しかし、「万世一系の天子の家」には、もう一つ継承されていたことがあると考えています。それは、古事記の伝える「道」の継承です。以前の以下のブログでも書いていますので、読んでみてください。
古事記の伝える「道」は、次の3.でも検証しているように、文徳天皇の第一皇子である「惟喬親王」に伝えられたと考えています。
文徳天皇は、惟喬親王に天子の位を継がせたかったが、藤原良房によって邪魔をされたと伝わります。しかし、今回私は次代の「万世一系の天子の家」の血筋が藤原基経により隠されたこととの対比で、「道」が万世一系の天子の家が外されたことは、神の御計画により、「文徳天皇」と「藤原良房」が行ったのではないかと思いました。
前回、藤原家の始祖「藤原鎌足」をして、天智天皇は「吾が張良」と仰ったとお伝えしましたが、「良房」という名は「張良子房」からとった名前と思い、文徳天皇における「藤原鎌足」のような霊的な導きを受けた存在であること伝えているのではないかと思いました。(しかし、それはやはり罪深いことなので、良房には子供ができず、兄長良の三男の基経を養子にもらっています)
3.伯家神道と皇位任命権
(1)「惟喬親王」と「伯家神道」
写真は、昭和初期、白洲正子が書いた「かくれ里」という本です。
この中の「君ヶ畑」という章に、「惟喬親王」の子である「兼覧王」が「伯家神道」の始祖との記述があります。
「伯家神道」の秘奥義は「天照皇大神=イエス・キリスト」です。そして、「イエス・キリスト=道」ですから、「道」の伝承です。
「万世一系の天子の家」から「道」の伝承が外れた後は、「伯家神道」伝承者が代々その事を伝えてきました。
(2)神祇伯と皇位任命権
「伯家神道」とは、「神祇伯」を継承した家の伝えた神道という意味です。私は高校時代、徳之島のダビデ王勝信貴先生の塾で、「伯家神道伝承者は、皇位任命権を持っていた」と聞いた記憶があります。
当時は「天皇とは日本の王であり、神祇伯は従四位下なのに、それを任命できるってどういうこと?」と思っていました。
今考えると、「万世一系の天子の家」から「道」が外れ、「血」も隠された後は、「天子の位」は、第58代光孝天皇以降の「仮装天子の家」が継承していきました。
「道」の伝承者である「伯家神道伝承者」は「天皇=主なる母なる神様」のこの世での霊的権威ですから、いわば「主なる母なる神様」が仮装の「天子」を任命していたと理解したら、合点がいくのではないかと思います。
(3)勝先生と由利渓先生
「道」が「万世一系の天子の家」から外れた事が、神のご計画と納得するのは、「血」の継承者つまり「万世一系の天子」である勝先生と、「道」の継承であった「伯家神道伝承者」であった由利渓先生が、30年以上前に出会われているということです。
このお二人の出会いは、「血」と「道」が一つに戻ったことを意味すると、皆さんもお分かりになるでしょう。
今世界が大きく動こうとしています。これは、神のご計画、神の栄光が明らかになろうとしているのです。信仰心と自分で考えようとする姿勢を持ち続けたいと思います。
祭司エノクーアロンの子孫
藤原朝臣太郎道人