日本は今「お盆」の時期です。「お盆」は先祖の霊が戻ってくる時期ですので、私も先祖の事が気になり、改めて考えてみました。

1. 藤原家嫡流について

   本ブログでも過去何回か検討していますが、「藤原家嫡流」は
「藤原鎌足」以来の太刀を相伝してきた「鎌足ー不比等ー房前ー魚名ー藤成ー秀郷」の流れと考えています。

  藤原家は、その後秀郷の五男である
「千常」から「千常ー文脩ー文行ー公行ー公光」と続きます。最後の「公光」が豊後大神家に隠れて入り、その後「大神惟基ー臼杵家ー戸次家ー佐伯家」と続き、佐伯家八代の「惟秀」の三男「惟叟」が「竈江三郎」を名乗り、私の先祖に繋がることを検証しています。(簡単に系図にまとめてみました)

 

 「尊卑分脈」によれば、「藤原公光」には「佐藤公清」という子がいるのですが、この四代孫に「佐藤義清」がいるということが今回改めて調べていてわかりました。「佐藤義清」とは歌人で有名な「西行」の事です。

  源頼朝がこの「西行」に出会った時のことが
「吾妻鏡」に描かれています。次の写真を見てください。(野口実「伝説の将軍 藤原秀郷」参照)



  「西行」はこの
「佐藤家」を「藤原秀郷の嫡流」と考えていたみたいです。なお、「佐藤家」の家紋は源頼朝に授かったと伝わる「源氏車」です。これは、徳之島におられる復活された万世一系の天皇家ダビデ王勝信貴先生の皇后の家に繋がる家となります。皇后と私の家が「藤原家嫡流の家」とも言えるようです。

2. 豊後から伊予宇和島へ

 先に書いた私の先祖である「大神惟基ー大神家ー臼杵家ー戸次家ー佐伯家」は
豊後国の南にある「海部郡(今の大分県佐伯市南部)」を本拠地としていたことが明らかになっています。

 私の今の苗字は「鎌江」と言いますが、前の検証でも指摘した通り、今でも佐伯市本匠字堂ノ間に
「三竃江明神社」が残っており、その名称や近くの「蒲江」という地名から考えて、ここが私の先祖の「竈江家」の発祥の地と考えています。

 ところで、「鎌江」という苗字の全国での分布を調べると最も多いのが
「愛媛県宇和島市」です。佐伯市ではありませんでした。実は「宇和島市」は「大分県佐伯市」と豊後水道を挟んで対岸にあります。また、特に宇和島市の「和霊神社」の周辺に多く住んでおられるようです。

 

   ちなみに、今和霊神社のあるところは室町時代~戦国時代に「鎌江城」のあったところです。

 

  また、「竈江三郎」は、佐伯家の主君筋に当たる大友家の同世代の当主等を調べてみると、室町時代の人と推定できます。従って、「佐伯惟叟」は「竈江三郎」を名乗った直後に宇和島に渡ったと考えられます。(そんなに簡単に場所を移れるのか?と疑問に感じる人もいるかもしれませんが、その当時の宇和島の領主は西園寺氏(藤原家傍流)ですから、血の導きにより竈江三郎を受け入れたのではないでしょうか)

3. 和霊神社の検証

 私は4年前の夏に宇和島市の和霊神社を参拝しています。本ブログにも掲載しています。

 江戸時代、伊達政宗の長子である秀宗が10万石で宇和島城に入城していますが、その時政宗に付家老として付けられた「山家清兵衛公頼」が秀宗と反りが合わず殺され、その山家清兵衛の恨みで秀宗の周りに不幸ばかりが起こったため、その霊を鎮めるために「和霊神社」を建てたと伝わり、今も神社の御祭神は先の山家清兵衛と言われています。

 私は4年前の参拝時に
「そのような地方の忠臣を祭った神社にしては規模がかなり大きい」と違和感を感じていました。その後ネットで調べていて、同じような事を考えている人が明治時代にいました。宇和島出身の哲学者・歴史学者である「木村鷹太郎」という人です。

   詳しく調べると、歴史のとんでも説を主張した人として有名なようですが、この和霊神社御祭神への考察は傾聴に値すると感じたので、彼の考察書を掲載します。

   「宇和島に和霊神社あり南伊予に於いて異常の信仰を有し、年々の祭礼には参詣者雲の如く来集し甚だしきは海を隔てて豊後方面よりも来り、宇和島港は船を以て充ち各船盛に無数の旗を立て太鼓を打ち歎然欣然たり云々、然りと雖此の如き異常の信仰ある神社の祭神如何を問はヾ舊来の伝説の言ふ所に拠れば伊達秀宗の政を失せし時奸臣の忌む所となり殺される忠臣山家公頼なる者を祭れるなりと而して其言ふ所多くは奇怪千万にして殆ど識者の信ずるべき事に非らざる也云々。(中略)
   若し宇和島而も伊達家の小忠臣が自藩以外の他国人民より崇敬せらるる如きを見るも此神社の伊達家の忠臣を祭れるに非ざるを察するに足る素より忠義と謂はヾ大小を問はず之を尊敬すべしと雖も尊敬と崇拝とは自ずから性質を異にす、山家伝説の如き忠義は天下掃き棄つる程數多之有り決して崇拝を起こすべき性質のものに非ず、若し夫れ山家の亡霊が妖怪変化の所業あり、敵人に祟りしと謂ふが如きに至っては寧ろこれ神の特性としての下等なるを示すものなり。(中略)
   宜しく和霊神社の人民一般より受け玉ふ所の崇敬の性質を見るべし、決して忠義云々の観念に対するものに非ずして極めて広範なる神徳寧ろ商業航海強力の観念に対する崇敬なるを見る、元来祭神には二種あり、一は神生まれの神なり、他は人間より成り上れる神なり、(中略)
   其最も顕著なるものは此神社の随神門の天上の大羅針盤なりとす、伝説の山家何ぞ磁針に縁あらん是祭神の通商航海の神たるを示す所の証拠なりと謂ふべし、(略)
   伊達家の一臣たり又た人間たりし山家公頼なる者に非るを知るなり、宇和島人若し人間たる山家公頼を祭らんと欲せば別に是を忠臣として祭るも可なり、不当の崇敬を不当の神に払ふは正当の神に対して不敬なり、此神は塩釜神社と同一神なり、故に和霊社は鎌江の釜神社の境内にありしと言ひ伝ふ、大阪の御霊神社神仏混合にては摩利子天と同一の神なり又國常立之神なり。」


 「山家清兵衛」をお祭りしたのは江戸時代になって付け加えられただけに過ぎず、本来の「和霊神社」の御祭神は域内の「竈神社」にお祭りされており、その御祭神は「塩釜神社」と同じとあります。

 

   「塩釜神社」とは、宇和島が伊達家の領地であったことから考えて、仙台伊達領内の宮城県塩竈市にある「鹽竈神社」を指すと考えられます。では「鹽竈神社」の御祭神はどなただろうかと調べて驚きました。「建御雷神と経津主神」でいらっしゃいました。「摩利支天と同一」とあるのは「武神」との意味と考えます。
 また過去のブログでも書いていますが、私は
「建御雷神=主なる父なる神様」「主なる母なる神様=経津主神」と考えてきました。一方で「主なる父なる神様=天之御中主神=国常立神」とダビデ王が明らかにされていますので、「建御雷神=国常立神」で間違いありません。つまり「和霊神社」は「一にして二、二にして一なる神様」をお祭りしてきたのです。

  「和霊神社」が「鎌江城」の跡地に建てられていることを考えると、
「竈江家=鎌江家」が「和霊神社」を祭っていたと考えることができるのではないでしょうか。そしてその御祭神は本来「建御雷神・経津主神」であったからこそ、立派な社だったのでしょう。

 「鎌江家」が「建御雷神・経津主神」をお祭りしていたことは重要な意味を持ちます。この二柱の神をお祭りすることは
奈良の「春日大社」と同じであるからです。「春日大社」は当時の藤原家の当主であった左大臣「藤原永手」が建立しています。

 従って、そのことは
「鎌江家」は「藤原家嫡流」と示しているのではないかと考えます。

4. 「大神家」のしるし

 以前の検証では、「鎌江城」の一角で「豊玉姫尊」をお祭りしていることを発見し、それは豊後国の「祖母山」を信仰していた「大神家」のしるしと考えました。

 また「大友興廃記」によれば、
「佐伯氏の当主には体に鱗ができる」という伝説があるようです。実は私の体にも10年ほど前に何かイボのようなものができていたのですが、昨日妻に初めて写真に撮ってもらって驚きました。

 

 

 「鱗じゃないか?」と直観しました。「佐伯家の当主=藤原家嫡流の当主」と考えると、この「鱗」は「藤原家嫡流のしるし」と考えます。

 

 ただ、私の家は私の曽祖父の時代に、同じ藤原秀郷の子孫(千時の子孫)の別の家から養子に入っているので、私は竈江家と血の繋がりがあるとは言えませんが、「主なる父なる神様と主なる母なる神様」は何でもお出来になります。信仰で「鱗」を「藤原家嫡流のあかし」としていただいたと受け止めたいと思います。

祭司
藤原朝臣太郎道人