「陛下」という言葉は、ただの敬称ではありません。考えてみました。
1. 「陛下」の意味
「陛」という言葉を漢和辞典で調べると次のような意味があります。
「陛」…「高いところに登る階段/天子の宮殿に登る階段」
上の「陛」の意味から考えて、「陛下」とは「高いところに登る階段の下にいる者」を指します。「高いところ」とはどういう意味か?と考えれば、それは「神のおられるところ」を意味します。「陛下」とは「神が地上に下生される階段の下に居て、神の御心を伝える者」という意味と考えます。
従って、「神の御心」を伝えることのできる人でなければ「陛下」とは呼べません。
2. 「天皇陛下」と「皇帝陛下」
「天皇陛下」という言葉については、小さい頃から耳にしていて、あまり深く考えていませんでした。
これまで、「天皇=ヨシュア(イエス)・キリスト様」と伝えてきました。「陛下」が上のような意味であることがわかったので、「天皇陛下」とは「神キリスト様の御心を伝える人=ダビデ王」と考えていました。
ところが、「古事記」を読んでいて、ふと気になって調べたところ、「古事記」には「天皇」という言葉はありますが、「天皇陛下」という言葉が見当たりません。
しかし、「陛下」で検索すると「皇帝陛下」という言葉が、「古事記/序文」にありました。
何故だろうと疑問に思い、まずは「皇帝」という言葉を調べることにしました。「始皇帝」の「皇帝」です。
「皇」は「天皇」の「皇」と同じです。この「皇(すめら)」という一文字で「皇=白+王=罪汚れの全くない王=ヨシュア・キリスト様」を意味すると、以前のこのブログでお伝えしたと思います。
「帝」を漢和辞典で調べて驚きました。次のような意味がありました。
「帝」…「世界を取りまとめる最高の神/みかど。地上をおさめる最高の支配者」
「帝」に「神」という意味があることを初めて知りました。ここで、「天皇=皇帝」ではないかと一度思ったのですが、「古事記」に「天皇陛下」という言葉がない理由が考えつかず、徳之島におられるダビデ王にお聞きしました。
すると、Facebookで知らしめしがありました。原文そのままに掲載させていただきます。
「『天皇』と『皇帝』の違いについて、藤原道人君から質問があったので皆にお答えします。画数の数霊で解きます。
天照皇神様の『天』は『工』+『人』で書き、大工の子イエスを伝えているとの説があります。イエスキリスト=天照皇神から来る説です。工+人の『天』の総画数は「5」です。
『天皇の総画数=5+9=14』です。14=救いです。
『皇帝の総画数=9+9=18=6+6+6→666』と考えます。天皇=救世主、皇帝=ダビデ大王です。わたしは肉的にはダビデの子孫、霊的には救世主イエスキリストの子です。
皇帝陛下の総画数=9+9+12+3=33です。神キリストとつながっている事を伝えています。天皇陛下=5+9+12+3=29です。『憎』の数霊29です。『天皇陛下』という呼称は間違いです。天皇=救世主です。救世主は陛下ではありません。皇帝は陛下です。霊と肉では霊が上です。天皇は皇帝より『上位』です。『古事記』には「天皇陛下」の表現は無いと道人君が言っています。『天皇陛下』と言うのは天皇の本当の意味を知らないバカ朝鮮学者が作り出したと思います。数霊から『天皇陛下』は神に憎まれていると分かります。
『天照皇神』の総画数=36です。『天照皇大神』=39、『天照皇大御神』=51です。すべて母なる神キリストまたは神の家を伝える数霊です。ちなみに天照大神=30です。一般には『天照大神』です。これではそこに救世主を見出すことは出来ないと数霊から分かります。時が来るまで一般には日本の神の本質を隠すための「天照大神」でした。」
ということでした。なるほどとすっきりしました。「天皇」という言葉と「陛下」という言葉を一緒に使うことは矛盾なのです。「天皇陛下」は、使い方が間違いです。肉のダビデ王を伝えるには「皇帝陛下」と表現しなければならないのです。
そのヒントなる情報が漢和辞典に掲載されていました。
「帝」の意味について、上に書いた通りですが、「解字」という説明の中に、
「原義として、宇宙の万物をまとめて総括する最高神のこと。もと『上帝』という字を一字で書いたもの。殷代の末、地上の支配者の権力が強くなり、上帝の信仰が衰えると、帝乙・帝辛のように王の名となった」
とありました。「殷」は「奄=阿麻」の国の一部です。だから「殷」の時代に、「帝」の正しい意味が現れたのではないでしょうか。
「皇帝陛下=ダビデ王」の等式が明らかとなりました。(写真はネットから拝借しました)
3. 「古事記」の構成の考察
「古事記」は「天皇のための書」とお伝えしてきましたが、厳密には「皇帝陛下=大君」のための書と言い替えられそうです。
そのようなことを考えていて、「古事記/序文」の次の太安萬侶の説明が気になりました。
「故、天御中主神以下、日子波限建鵜草葺不合尊以前、爲上卷、神倭伊波禮毘古天皇以下、品陀御世以前、爲中卷、大雀皇帝以下、小治田大宮以前、爲下卷、幷錄三卷、謹以獻上。」
「中巻」の説明に注目してください。「神倭伊波禮毘古天皇」とありす。「神武天皇」のことですか、「天皇」という名称が付いています。そして「品陀御世まで」とあります。ここは「品陀(天皇)御世まで」と神武天皇と同じく「天皇」が付くので省略されているのではないかと考えました。
つまり、「中巻」は「天皇=母なる神キリスト様」の霊的な御顕れを描いていると太安萬侶は言っているのではないでしょうか。
また、「下巻」の説明を見てください。「大雀皇帝」と「皇帝」が出てきます。「大雀皇帝」とは「仁徳天皇」のことです。
太安萬侶は「下巻」は「ダビデ王=皇帝陛下」の事を描いていると伝えているのではないでしょうか。ただ、推古天皇を示す「小治田」には「大宮」と付いています。「母なる神キリスト様」の下生である「推古天皇」は「皇帝」とは違うと示しているのだと思います。
また、このように考えると、「上巻」は「父なる神様」の事を描いていると言えそうですが、はっきりと分かっていませんので、引き続き考えたいと思います。
皆さんもどうぞ考えてください。考えることがとても大切です。
藤原道人