私は徳之島におられる復活された万世一系の天皇であるダビデ王の勝先生から、神キリストの権威をもって「藤原家嫡流」と認めていただいています。

 これまで先祖探求を行ってきたのですが、その時に出会った
「大神惟基と豊後大神家」につき、気付きをいただきましたので、お伝えしたいと思います。

1. 藤原家嫡流を伝える数霊

 以前からお伝えしているように、「藤原家嫡流」は
「鎌足ー不比等ー房前ー魚名ー藤成…秀郷ー千常…」です。それは、鎌足伝来の剣を秀郷が継承した旨「お伽草紙」に書かれていたことが根拠です。

 また、「魚名」は「房前」の
「五」男であり、「藤成」は「魚名」の「五」男です。さらに、「千常」は「秀郷」の「五」男であることから、「アロンの家」に与えられた数霊「51」を踏まえて、「藤原家嫡流」は数霊「5」によって導かれる家と考えたからでもあります。

2. 藤原家嫡流と豊後大神家との繋がり

(1) 藤原秀郷以降の嫡流

 藤原秀郷の後、藤原家嫡流は子の
「藤原千常ー文脩ー文行ー公光」と続きます。
 調査をしている中で、ネットで「藤原文行」の記事を目にしました。次のような内容でした。

 鎮守府将軍の職と下野の国衙小山荘を弟の兼光に譲った藤原文行は、一家郎党を率いて京に上り、検非違使についた。検非違使とは京都の治安維持と民政を所管する令外官である。同じ検非違使に豊後国海部郡佐伯(大分県佐伯市)の長者大神惟基がいて、文行は長子公光の嫁に惟基の娘をもらい受けた。

 他のページには、
「藤原公光」は「大神家」に養子に入ったともありました。少なくとも、「藤原家嫡流」と「豊後大神家」は関係のあることがわかりました。

(2) 「藤原家嫡流」は隠された

 ここで
「大神惟基」が気になり、その生没年を調べたところ、「大神姓佐伯氏系図」によれば、「1118年」に「93歳」で死去とあるそうですので、「1025年」生まれとなります。

 しかし「藤原文行」と「藤原公光」についても調べたところ、不思議なことがわかりました。

 
文行の没年は「1033年5月1日」と公行に親しかった参議源経頼の日記「左経記」にあるようです。また、「藤原公光」は「1036年」に左兵衛権少尉であったことが「江家次第」に記されており、「1047年2月21日」には検非違使であったことが「藤氏長者宣」に記載されているようです。

 普通に考えると、1025年生まれの「大神惟基」が「藤原文行」に会うためには、8歳で京都に来て検非違使になっていなければなりませんが、それは普通に考えれば不可能です。
 また、「藤原公光」が1036年に役職に就いていることを考えると、
「藤原公光」と「大神惟基の娘」は親子ほどの年の差があり、妻にするには釣り合いが取れない縁組みです。どちらかと言えば、公光は「大神惟基」と同世代と考える方が自然です。

3.「大神惟基」について

 さらに、「大神惟基」について、詳細を調べてみました。

 「大友興廃記」によれば、「大神惟基」は、大分県西部にある「祖母山」の
祖母山大明神の神体である蛇との蛇神婚伝説で殊に有名であるとこのこと。具体的には次の通りです。(写真はネットから拝借しました。以下同じです)

 

 豊後国の山里に住んでいた娘の許に、身元の知れぬ男が毎夜通ってきて、娘は子供を身ごもってしまった。母に唆されて娘が男の狩衣に糸を通した針を刺し、その後をつけると、男は祖母山の麓の岩穴へと入っていく。娘が姿を見せるように請うと、男はついに大蛇の本身を現す。そして、狩衣に刺したと思った針は、大蛇の喉元に刺さっており、大蛇は、生まれてくる子供は男児で、武芸で九州二島に並ぶ者はないであろうと告げ、息絶える。

   やがて生まれた子は、大蛇が言うとおりの男児で、祖父から名を取って大太と名付けられた。成長が早く7歳で元服し、手足があかぎれでひび割れていたため「あかがり大太」と呼ばれたという。これが後の大神惟基である。

 そして、この
「大神惟基」の母は「堀川大納言の女(むすめ)」であると言います。「堀川大納言」とは「藤原伊周」です。
 ただ、藤原伊周は藤原道長との政権闘争に敗れ、太宰府へ流されたことは史実ですが、伊周の娘が豊後に住み着いたとは伝わっていないようです。

 そこで、私はここまでの伝えを
「万世一系の天皇家」と「対」で考えました。「伝えは嘘ではなく、藤原家嫡流について隠されていることがある」と。

   「大神惟基」が「堀川大納言の娘」との伝えは、「藤原家出自」であることを伝えているのではないか。蛇神の子とは「龍神の子」を意味し、『神キリストの子=皇子』であることを現しているのではないか」と。

 さらに、「大神惟基」の父である
「大神庶幾」「大藤太」と称していたことで、その事を確信しました。「藤太=藤原太郎」つまり「藤原家嫡流」を意味します。


 また、年代の一致性から、今回の検討で、「大神惟基=藤原公光」が隠されていたと感じました。(これまでは、大神庶幾=藤原公光と考えていました)

4. 大神家~臼杵家~佐伯家にみる数霊のお導き

(1) 系図にみる数霊

 
「豊後大神家」は「大神惟基」を祖として、その子の「臼杵九郎大夫惟盛」から「臼杵家」、そしてその孫の「惟家」から「佐伯家」が派生しています。そして、八代の「惟秀」の三男「惟叟」「竈江三郎」を名乗り、「竈江家」を派生させたと考えます。この人物が私の先祖と思います。従って、「藤原家嫡流」は「大神家ー臼杵家ー佐伯家ー竈江家」となります。

 「臼杵惟盛」は「九郎」との名があるのですが、
「大神惟基」の「五」男であることがわかりました。数霊「5」のお導きを受けて、より確信が強くなりました。

(2) 伝来の剣

 そして、佐伯家は、「大友興廃記」によれば、
「手鉾之太刀」、「飛龍之太刀」、「神息之太刀」、「小屏風長刀」そして「巴作り之太刀」の五剣を代々伝えたとのこと。ここにも数霊「5」のお導きがあると感じました。

  なお、伊勢神宮に
「蜈蚣切」という伝藤原秀郷佩刀が伝わっていますが、この刀の作者が「神息」と伝わります。
 「神息」は
宇佐八幡宮の伝説の鍛冶師とのこと、「神息の剣」の繋がりでも、「大神家ー臼杵家ー佐伯家ー竈江家」は「藤原家嫡流」と感じました。

 

5. 更なる数霊からいただいた気付き

 私が「大神家ー臼杵家ー佐伯家」を先祖と考えたのは、「佐伯惟叟」が「竈江三郎」を名乗っていたからです。


 私の祖父は「鎌江三郎」と言います。次男なのに何故「三郎」なのかと、昔から不思議に思っていました。しかも、最近親戚から祖父が「うちは藤原秀郷の子孫」だと常々言っていたと聞きました。「やはりそうか」と思いました。

 しかし、ここで悩みました。私の家は数霊「5」によって導かれる家なのに、何故
「竈江三郎」と「3」なのかと。
 そこで、考えました。
「『5』の後に『3』を伝える家」または「『5』と『3』を伝える家」いうことではないかと思い当たりました。

  
「5=聖霊による変化」により「3=三位一体の神」を認識する、もしくは「3=聖霊」により「5=新生という変化」を受ける家という意味だと思います。

 本日も神のお導きに心から感謝申し上げたいと思います。

藤原道人