先日徳之島におられる万世一系の天皇たるダビデ王と私とで、「百人一首」最初の歌である「秋の田の…」で始まる天智天皇御製の歌につき、その意味をお伝えしました。

 

    私はその後すぐに、この次に続く持統天皇御製の歌も、重要な意味を持つのではないかと考え、今朝ダビデ王とお話をしたところ、賛成をいただきまいたので、お伝えしたいと思います。

 

1. 「百人一首」第二番の歌

 

    持統天皇御製の歌です。

 

     「春過ぎて  夏来にけらし  白妙の  衣干すてふ  天の香具山」

 

   私は、ダビデ王が天智天皇の第一番目の歌である「秋の田の…」の歌は「贖罪の歌」と明らかにされたことを受けて、この持統天皇御製の歌は「イエス・キリスト御復活の歌」ではないかなと直観しました。

   そしてその事をダビデ王にお伝えしたところ、その考え方に賛同いただきましたので、この歌を細かく見て行きたいと思います。

 

2. 歌の品詞分解と直訳

 

    歌の言葉について、品詞分解をしてみます。

 

   ・「春」…名詞

   ・「過ぎ」…動詞上二段活用「過ぐ」の連用形

   ・「て」…接続助詞

   ・「夏」…名詞

   ・「来」…カ行変格活用「来」の連用形

   ・「に」…完了の助動詞「ぬ」の連用形

   ・「けらし」…過去推定の助動詞「けらし」の終止形。

                    ~したらしい。~ようだ

   ・「白妙」…名詞

   ・「の」…格助詞(連体修飾格を作る)  ~の

   ・「衣」…名詞

   ・「干す」…動詞サ行四段活用「干す」の終止形

   ・「てふ」…連語(=格助詞「と」+動詞「いふ」)

   ・「天の香具山」…名詞

 

    となります。つまり直訳的には「春が過ぎて夏がやってきたらしい。白妙の衣が干してあるというよ、天の香具山には。」という意味になるようです。

 

3. 真実の意味の検証

 

(1) 白妙の衣

 

   「白妙の衣」とは「白=イエス・キリスト」であることから、「イエス・キリスト」を象徴すると私は考えましたが、ダビデ王から「妙=聖霊」と考えられるとお聞きしました。つまりイエス・キリストから聖霊を授かったことを象徴する衣、イエス・キリストから授かった衣とでも言いましょうか、そのような衣を意味しているのではないでしょうか。(日本書紀にある瓊瓊杵尊が降臨される際に高皇産霊神から授けられた「真床覆衾」のようなものでしょうか)

 

(2) 「干すてふ」の意味

 

   では何故その衣を干してあるのでしょう。それはその衣が「濡れている」からです。そうでなければ干す論理的必然性がありません。ではその衣は濡れているのでしょうか。ここで第一番目の天智天皇の歌との繋がりがあると考えれば、その意味がわかります。つまり「天智天皇が流された涙」でその衣は濡れていたのです。これは「天智天皇家」に授けられた衣と考えられます。

 

(3) 「春過ぎて夏来にけらし」の意味

 

   「春」は「イエス・キリストの御復活」を意味すると考えます。そしれ「夏」は漢和辞典を調べると「盛んになる」という意味があります。つまり、天智天皇の歌と一緒に繋げて考えれば、「一度死なれて、御復活されることで、ますます盛んになられた」ことを意味します。

 

(4) 「天の香具山」の意味

 

    では、何故「天の香具山」に白妙の衣を干すのでしょうか。「天の香具山」は奈良盆地にある大和三山の一つであることはご存じの方も多いでしょう。私は、この漢字の意味を漢和辞典で調べてみました。

 

    「香」…「いいにおい、香り」

    「具」…「食物を鼎にそろえて差し出す様」

 

   「香」について、すぐに聖書の言葉が思い出されました。供え物を主にささげる時の神の御言葉です。

 

〇 レビ記第1章7~9節

 

    「1:7祭司アロンの子たちは祭壇の上に火を置き、その火の上にたきぎを並べ、」

    「1:8アロンの子なる祭司たちはその切り分けたものを、頭および脂肪と共に、祭壇の上にある火の上のたきぎの上に並べなければならない。」

    「1:9その内臓と足とは水で洗わなければならない。こうして祭司はそのすべてを祭壇の上で焼いて燔祭としなければならない。これは火祭であって、主にささげる香ばしいかおりである。」

 

  「旧約の神様=天地創造の神=ヤハウェの神=在りて在る神=万軍の主イスラエルの神=父なる神」へお供えする際には、必ずその肉を焼かないといけないのです。その「香り」を備えることが「父なる神」への正しき燔祭=お供えの仕方です。そして、このお供えは何のためでしょうか。同じくレビ記に神の御言葉として書かれてあります。

 

〇 レビ記第1章3~5節

 

    「1:3もしその供え物が牛の燔祭であるならば、雄牛の全きものをささげなければならない。会見の幕屋の入口で、主の前に受け入れられるように、これをささげなければならない。」

    「1:4彼はその燔祭の獣の頭に手を置かなければならない。そうすれば受け入れられて、彼のためにあがないとなるであろう。」

    「1:5彼は主の前でその子牛をほふり、アロンの子なる祭司たちは、その血を携えてきて、会見の幕屋の入口にある祭壇の周囲に、その血を注ぎかけなければならない。」

 

   この燔祭は、自分の「罪」に対する「贖い」のためのお供えです。5節を見るとその牛の血を会見の幕屋の入り口にある祭壇の周囲に注ぎかけなければならないとの御言葉があります。これは、「過越」と同じ論理と考えます。

 

    以上を総合して考えると「香具山」とは「父なる神」様のことを象徴していると考えます。そして、「父なる神」様も「天=阿麻=徳之島」におられるため、「天の香具山」との名称になったと考えられます。

 

(5) 全体の意味の検証

 

     全体を通して、次のような意味と考えます。

 

   ①「イエス・キリスト」が「人の罪を贖って

     十字架に掛かり命を落とされた」ことを

     自分のこととして「天智天皇」は認識され、

     涙を流された。

   ②「イエス・キリスト」は御復活され、御崩御

      以前よりますます盛んになられて、

      「父なる神」から「御名と万物を相続され

      て」、「神キリスト」となられた。

   ③持統天皇は、天智天皇が流された涙で

      濡れた衣を「父なる神」様の前にその贖い

      のために干したところ、盛んになられた

      神キリストの御力で衣も乾いた、つまり

      罪から救われた。

 

  という意味ではないでしょうか。このことを「天智天皇-持統天皇」という「天皇の家」で伝えているものと考えられます。

 

   皆さんもどうぞお考えください。

 

藤原道人