実は、このブログは明日アップしようと思っていたのですが、本日8月28日は「建国記念日から198日後」となる日です。「198=11×18」となり、「万世一系の天皇を11で導く神」の「復活=18」を表す日とも読めますので、どうしても今日アップした方がよいと感じ、急いでアップしました。
先日の旅行で、滋賀県長浜市にある余呉湖の近くにある「乎彌神社」にも参拝に伺いました。実は、この「乎彌神社」、テレビ番組で取り上げられていて、とても行きたかった神社だったのですが、調べてみると、万世一系の天皇家のある「徳之島」と私の先祖である「藤原家」に大きく関わりがあることがわかりましたので、ご報告したいと思います。
1. 「乎彌神社」について
(1) 神社について
「乎彌神社」は、余呉湖の近く、賤ヶ岳の合戦で有名な賤ヶ岳の近くにご鎮座されています。
社域がとても広くて、朝一番に訪れたこともあり、誰もいなくて、とても荘厳な雰囲気のある神社でした。こちらと比べると、伊富岐神社は「神聖」なと言う言葉の方が合っているかもしれません。

(2) 御祭神について
御祭神は「臣知人命・海津見命・梨津臣命」の三神です。
余呉湖の周辺を開拓した「臣知人命」を祭った「乎彌神社」とその子の「梨津臣命」を祭った「乃美神社」が賤ヶ岳の合戦の際、合祀されたようです。従って、現在の「乎彌神社」では、その両神をお祭りしています。神社の説明書きに書いてありました。
2. 天女の羽衣伝説を通しての徳之島(阿麻彌島)との関わり
(1) 天女の羽衣伝説
実は、私がこの神社に訪れたかったのは、この神社の近くにある「余呉湖」に「天女の羽衣伝説」が残っていて、その伝説がこの神社に大きく関係していたからでした。
「帝王編年記」や「近江国風土記」には、以下のような記述があります。
※「帝王編年記」より抜粋
古老伝に曰く、近江国伊香郡与胡郷の伊香小江(いかご の おえ)は、郷(さと)の南にあり。天の八乙女(やおとめ)、ともに白馬となり、天より降りて、江の南の津で浴す。
伊香刀美(いか とみ)西山に有りて、遥かに白鳥を見る。その形奇異なるによりて、もしやこれは神人(かみこの)かと疑(おも)いて、住(ゆ)き是(これ)を見るに、実に神人なり。
是に於いて、伊香刀美即(ただ)ちに感愛を生じ、環去するを得ず。窃(ひそか)に白犬をやり、天衣を盗み取り、弟(いうと)の衣を隠し得たり。
天女、これを知り、その兄(あね)七人、飛びて天上に去る。その弟一人飛び去るを得ず。天路(あまぢ)、永く塞がり、即ち地民(ぢのたみ)となる。天女の浴(ゆあみ)せし浦を、今神浦という。
伊香刀美、天女の弟女と、ともに室家をつくり、此れに居て、遂に男女を生む。男二人、女二人にして、兄の名を恵美志留(オミシル)、弟の名を那志等美(ナシトミ)、女の名を伊是理比咩(イセリひめ)、次女の名を奈是理比咩(ナセリひめ)という。
これ此の伊香連等の先祖なり、後に母天の羽衣を捜し取り、着て天に昇る。伊香刀美、独り空床(からのとこ)を守り、嘆詠(たんえい)断(いた)えず。
余呉湖の湖畔に、やってきた天女が衣をかけた柳があり、そこにも訪れました。

天女と聞いて一番に思いつくのは「徳之島」です。「天女」の「天」は「てん」ではなく、古事記同様に、「天=あま=阿麻」と考えます。「阿麻」は、「阿麻彌島」を指します。それは、「徳之島」の古名です。
さらに、「徳之島」の天女伝説は、余呉に伝わるそれよりも話が長く、天女が天に戻られた後のことにまで話が及ぶとのことですので、徳之島の伝説の方が「基」と思われます。
さて、伝説の内容ですが、「八乙女」が「白馬」となって、天降りなさったとあります。「8」は「永遠」の象徴であり、「永遠」は「神」を意味します。また、「白馬」の「白」は「主イエス・キリスト」の象徴です。
つまり、「天女が天降りたもうた」とは、「三位一体」の神(もしくは神の御使い)が、徳之島から来られたことを意味するのではないでしょうか。
さらに、「8」人のうち「7」人が去ったと言うことになりますので、「7=新約の神=神キリスト」ですから、三位一体の神が去ってしまわれたということでしょうか。(逆にもしくは、伊香刀美に聖霊が下ったということでしょうか)はっきりしたことはわかりません。
先に、徳之島の羽衣伝説の方が「基」と申し上げましたが、天女が徳之島出自と考えれば、徳之島から近江国余呉に来られて天女により、徳之島にあるこの伝説が余呉の地域に伝えてられたのではないでしょうか。
(2) 御祭神についての検証
お気付きになったでしょうか。伊香刀美と天女との間にできた男の子が、「乎彌神社」の御祭神です。兄の恵美志留が「臣知人命」であり、弟の那志等美が「梨津臣命」です。
3. 中臣氏との繋がりとその役割
(1) 御祭神と中臣氏との関わり
さらに、調べていてもう一点分かったことがあります。発端は、「そもそも伊香刀美とは誰なのか?」と思ったことです。ネットで調べて分かったことは、「伊香刀美=伊賀(もくしは香)津臣命」ということでした。
余呉湖の南東方向に「伊香具神社」という延喜式内大社があります。この神社の御祭神が「伊賀津臣命」であり、余呉地域では「伊香刀美」と同一視されているとのことでした。私も12年前に訪れていました。

実は、この「伊香刀美=伊賀津臣命」が中臣氏と関わりがありました。関わりというより、中臣氏の嫡流であることがわかりました。室町時代に作られた「尊卑文脈」に、その名が記されています。
「臣知人命」はその名がありませんでした。どうも中臣氏(藤原氏)の嫡流は弟の「梨津臣命(上記では梨迩臣命)」の方が継承したようです。
さらに、「日本書紀」の神功皇后の段に、その名が登場することもわかりました。(我々天皇家以外は、「古事記」に詳細は書かれませんので、「日本書紀」を読むしかありません)
ちなみに、平安時代、嵯峨天皇の勅命にて作られた「新撰姓氏録」によれば、「臣知人命」が余呉地域の「伊香連」の祖になったとのこと。「伊香連」は「中臣氏」嫡流からの分家となるようです。
(2) 神紋について
実は、「乎彌神社」をご参拝して、最も気になったことは、神紋でした。写真は御賽銭箱に彫られた神紋です。
なんと、「三つ鶴」という珍しい紋です。ネットで調べてもあまりよくわかりませんでした。
ただ、私はふと思いました。確か、万世一系の天皇家の隠れ紋は「対い鶴」、そしてこれまでのis6689ブログの記事で、始祖の初代応神天皇が徳之島におられたことが明らかになっている。中臣氏の始祖は、「天之兒屋根命」であり、「天」と付くことから考えて、徳之島出自である。(中臣氏は「レビ族」ですので、万世一系の天皇家である「ユダ族」がおられるところに一緒にいることは当たり前なのですが)
もしかすると、「三つ鶴」は中臣氏の元々の紋であり、「鶴」の紋は徳之島出自を示しているのではないかと。(ただこれには、「対い鶴」の紋が、徳之島におられた時からの万世一系の天皇家の家紋であることが明らかにならなければなりませんが)
(3) 応神天皇と中臣氏
近江八幡市の「日牟礼八幡宮」は、応神天皇が宮を立てられたらところに「重ね日輪」が現れたことが基となるなど、「応神天皇」は近江と非常に関わりのある方です。また、古事記にも書かれていますが、応神天皇は敦賀へ行幸されていますが、余呉は近江八幡と敦賀の道中になります。必ず通られた道と思います。
また、中臣伊賀津臣命は、日本書紀によれば、神功皇后の審神者です。神功皇后は応神天皇の母です。時代的にもあいます。
とすると、中臣伊賀津臣命は、応神天皇と共に近江国にやってきたのではないでしょうか。天皇が行幸される道に、中臣氏を配置することは考えられることです。
上の尊卑文脈の伊賀津臣命の孫の「神聞勝命」は、鹿島中臣氏の祖と言われているようですので、「神聞勝命」の代には茨城県鹿島の地にいたと考えられます。
しかし、少なくとも神社に御祭神として祭られている伊賀津臣命と梨津臣命の代は、近江国余呉の地域に中臣氏の嫡流も居住していたのではないでしょうか。
そして、嫡流の梨津臣命もしくは神聞勝命は、鹿島へ向かうにあたり、兄もしくは伯父の臣知人命に本来の家紋である「三つ鶴」を残して、旅立ったのではないでしょうか。
(3) 中臣氏の役割
では何故、中臣氏はこの余呉という地域に居住する必要があったのでしょう。私は、この夏の旅を通して、色々な神からのお導きをいただいておりますが、ここへ来て余呉に中臣氏の嫡流がいたというお導きをいただいたということは、やはり「伊吹山」を祭祀するためと考えられます。(ちなみに、伊吹山から乎彌神社へは南北から「55度」西へ傾いた位置でした)
また、中臣氏はイスラエル12部族のうちの「レビ族」の子孫です。「レビ族」は祭祀の家です。申名記に以下のような聖句があります。
○ 申命記第9章8節~9節
「かの時エホバ、レビの支派を区分てエホバの契約の匵を舁しめエホバの前に立ちてこれに事へしめ、又エホバ名をもって祝することを為させ給へり。その事今日にいたる」
「是をもってレビはその兄弟の中に分なく、また産業なし。惟エホバその産業たり。汝の神エホバの彼に言いたまへる如し」
なお、「余呉湖」は又の名を「鏡湖」と言い、とてもきれいな湖です。「鏡=鑑」ですから、余呉湖は洗礼の場所だったかもしれません。
少なくとも、余呉湖周辺の「伊香郡」は、「伊吹山」を祭祀する大変に神聖な場所だったと考えられます。
近江国は式内社が全部で155座ある大変神聖な国ですが、「伊香郡」はそのうちの断トツの「46座」の神社がありますし、また湖北は万世一系の草薙天皇ダビデの数字である「11」を冠する「十一面観音」をお祭りしているお寺が多いですが、特に伊香郡は有名な「向源寺(渡岸寺)」を始め、「医王寺」、「鶏足寺」、「石道寺」、「西野薬師観音堂」、「和蔵堂」など非常にお祭りするお寺の数が多いことも、その名残なのではないでしょうか。
皆さんも是非ご検証ください。
藤原道人

