【お稲荷様】天珠惣十稲荷神社の歴史と不思議な話【実在した人物】 | 民俗旅記

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たまにスピ( ˙꒳​˙ᐢ )スピッ

こんにちは、なつきです。

久々に民俗学の話。今回は東京都昭島市にある小さな神社の不思議な話をお送りします。

実際に訪れたり、昭島市の図書館でかなり調べたのでしっかりした内容になっているはず。

(前回の記事同様ChatGPTに手伝ってもらいながら(笑))

 

 

天珠惣十稲荷(てんじゅそうじゅういなり)

 

 

 


昭島市の上川原村(現在の昭島市昭和町4-8)にある天珠惣十稲荷神社(てんじゅそうじゅういなりじんじゃは、1835年(天保6年)に創建された歴史ある神社です。この神社には、地域の人々にとって大切な信仰と歴史があります。この記事では、天珠惣十稲荷の歴史や信仰について詳しく紹介し、この神社が地域社会にどんな影響を与えてきたのかを探っていきます。

 

本題に入る前に、考察を理解しやすくするために、AIによる要約を先に読んでください。

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天珠惣十稲荷は、天保の大飢饉の前年である1835年に創建されました。百姓権八の奥さん、しまさんが病気に苦しんでいるときに、稲荷が乗り移り、祠の建立を求めました。名主七郎右衛門が祠を建立し、しまさんの病が治るとともに信仰が広がっていきました。

 

天珠惣十稲荷の歴史

 

 

 

天珠惣十稲荷は、天保の大飢饉の前年である1835年に創建されました。ことの発端から顛末まですべてが、旧上川原村の指田家に伝わる「永代萬覚書(えいだいよろずおぼえがき)」に記されています。(天珠惣十稲荷は流行神と呼ばれる、一時的に大きなブームになる信仰形態をとったものですが、流行神はその多くが詳細な記録が残っていません。しかし、事の発端から祠の建立、賽銭の記録や購入した水田を小作に出した記録など、惣十稲荷は多くの記録がきちんと後世に残っている珍しい例です。)

 

顛末は以下。

百姓権八の奥さん、「しま」が病気に苦しんでいるときに、稲荷が乗り移り「名主七郎右衛門に頼みたいことがあるからぜひ七郎右衛門に会いたい」としきりに口走りました。

そこで同じ五人組(学校で習ったあれ)の儀右衛門が七郎右衛門にそのことを伝えに行くも、忙しく断られてしまう。ただ、「しま」に乗り移った稲荷はどうしても会いたいと言い、何度も儀右衛門を往復させて頼み込み(笑)、なんとか七郎右衛門に会うことができます。

 

七郎右衛門に会った「しま(稲荷在中)」は

「私は肥後国(熊本県)で生まれたが、200年ほど前からこの山に住み着いている。しかし誰にも知られずお宮も建てられていない。そこで、お宮を建てるために貴殿を頼りたい。場所は今まで住み着いてきた仙元山(※)にしてほしい。建ててくれたら『しま』の病は治すし村中安全をいつも保ってあげることにする」

と頼みます。

 

 

仙元山は浅間山のことです。現在この神社のある富士塚のことで間違いないでしょう(再建後のためか、境内に富士塚がある状態。再建前の写真も一枚あったが記録してないため要望あればコメで教えてください)。

現在は山というには無理がある大きさですが、当時であるから森や林の意味であったのでしょうか。ここら辺は最近の若者なので分かりません。どうなんですかおじいちゃんおばあちゃん?

 

七郎右衛門は言われた通りお宮を建て、無事に「しま」が回復したことを代官所に報告した記録が残っています。

この報告の中に面白い記述があります。

 

「(前略)・・・(しまに)稲荷がのりうつりました。当村内の字藤塚に富士仙現社(浅間社)があり、その社内に古くは稲荷祠がありましたが、大破して今は跡かたもなくなっております。この祠を以前のとおり建てなおしてくれ、建てなおせば、病気は全快するであろう、と申します・・・」(昭島市発行.昭和53年「昭島市史」より)

 

永代萬覚書の内容と少し異なり、もともと稲荷を祀っていたことになっています。ここについては後の章で考察を書きます。

 

さて、稲荷を祀ったことで「しま」の病気は無事治りますが、このことが近くの村々まで伝わりますと、病気の人々がやってきて信心するようになり、みな回復していったそうです。そのため、病気でなくても参詣に来る人が大勢になり、参詣しに来た人相手に餅菓子などを売る商人があらわれて商売するほどになりました。(この段階で七郎右衛門は村人と話し合い、前述の代官所への報告を行いました)

 

永代萬覚書と代官所への報告書に出てくる権八は宗門人別帳(当時の戸籍のようなもの)に名が記されており、その奥さんの「しま」の墓も残っているため、この話の顛末は実在した人物を基にした話であるのは間違いないでしょう。 

 

こうして大人気となった天珠惣十稲荷は、短期間で大ブームを迎えた後、急速にその勢いを失っていきました。賽銭の記録によると、創建された天保6年の正月から4月にかけて賽銭額が最も多く、5月以降は急激に減少していきました。その後、翌年の正月に一時的に賽銭が増えたものの、再び減少し続け、ついにはほとんど参詣者が訪れなくなりました。

 

 

 

 

考察

 

以下、前述していた考察です。ChatGPTにまとめてもらいました。私が書く文より整理されていて読みやすいですね。

永代萬覚書と代官所の報告記録の違い

永代萬覚書の内容

  • ストーリー:
    • 百姓権八の奥さん「しま」に稲荷が乗り移り、名主七郎右衛門に会いたいと口走る。
    • 儀右衛門を介して何度も頼み込み、最終的に七郎右衛門に会うことができる。
    • 稲荷が七郎右衛門に対して「お宮を建ててくれたら『しま』の病気を治し、村を守る」と約束。
    • 七郎右衛門がお宮を建て、「しま」が回復する。

代官所の報告記録

  • 詳細な背景説明:
    • 稲荷が乗り移った「しま」が、当村内の字藤塚にかつて稲荷祠があったが、大破してしまっていることを説明。
    • その祠を再建すれば病気が治ると伝える。
    • 報告書には、もともと稲荷を祀っていたことが記載されている。

考察

民俗学的視点

  1. 口承と記録の違い:

    • 永代萬覚書は、口承や村内の伝承を基に書かれている可能性が高い。そのため、物語性や村民の信仰心を強調するシンプルなストーリーとなっている。
    • 代官所の報告記録は、公式な文書としての信頼性を保つために、より詳細で背景情報を含んでいる。これにより、稲荷祠がもともと存在していたことを強調している可能性がある。
  2. 信仰の強化:

    • 村民にとって、「しま」の回復と村の安全を確保するための物語は、稲荷信仰を強化するための重要な要素だった。
    • 一方、代官所への報告は、公的な認可を得るために、既存の信仰や歴史的背景を強調することで、祠の再建が正当であることを示す必要があった。

信仰的な視点

  1. 霊的な経験の伝達:

    • 永代萬覚書では、稲荷が直接「しま」に乗り移るというスピリチュアルな体験が強調されている。これは、信仰者にとって非常に重要なポイントであり、稲荷の霊験を具体的に示すものとなっている。
    • 代官所の報告では、霊的な体験よりも、物理的な再建とその結果に焦点が当てられている。これは、公的な記録としての客観性を保つために必要な配慮といえる。
  2. 信仰の再確認:

    • 祠の再建がもともと存在していたものを修復するという形で記録されることで、村民の信仰の継続性や歴史的な正統性が確認される。
    • 一方、永代萬覚書のような物語は、信仰者にとっての霊的な体験や奇跡を強調し、信仰を深めるための手段となる。

 

同じ高台の上に2つの祠(右側は祠を更に社殿で覆ってありますね)
右が稲荷、左が浅間社だとおもいますが、次の章の写真をみるとどうも謎・・・
 
 

 

 天珠惣十稲荷の力

 

 

天珠惣十稲荷は、その霊験で多くの参拝者を引き寄せました。村民や参拝者にとって、天珠惣十稲荷は心の支えとなり、社会不安や疫病、飢餓などの困難な状況を乗り越えるための重要な存在でした。わずかな時間でその流行は収まりますが、令和になった今でも神社は地元の人によって管理されており、地域社会に深く根付いています。日々の参拝を通じて、地域住民に心の安らぎを提供し続けています。

 

 

 

 

 

 

 
高台の左側にまさかの3つめの祠。昭和58年の再建時に作られたもので、浅間社なのか稲荷なのか不明。
入口の看板(記事内2枚目)に書いてある、左側の富士塚がこれで、高台の上のはどちらも稲荷という可能性もあるが、流石に富士"塚"は高台にあるもののはず・・・

別の方の記事によると、こちらは神明社のよう。なーほーね。
 
ちなみに高台の右側にも朽ちた社のようなものがありましたがこちらは見た感じ、再建前の祠をおいているだけな気がします。

まとめ

 

 

天珠惣十稲荷は、その歴史と信仰を通じて、地域社会に大切な精神的な支えを提供してきました。現代においても、その信仰は続いており、地域社会に安らぎと希望をもたらしています。天珠惣十稲荷の存在は、過去から現在に至るまで、人々の心の拠り所としての役割を果たしているのです

 

 

 

 

草刈り後のようで青臭さが心地よかったです。流行りが終わったと言っても、今でも愛されており、かなりきれいに手入れされていますね。
 
 

いかがでしたでしょうか?今回の記事についての質問や、次はここについて書いてほしいなどご要望や感想等コメントお待ちしております。フォローしてね。


参考文献

  • 昭島市教育委員会.2020/7/15.「あきしまの歴史散歩 2020年版」
  • 昭島市教育委員会.1981「昭島市の社寺と石造遺物」
  • 昭島市.1978/11/1.「昭島市史」
  • 山崎藤助.1967/4/1.「郷土史 あきしま」