1937年の日本軍による南京占領の際に、日本軍による少なくとも万の単位の中国軍人(捕虜、投降兵など)、民間人に対する「虐殺」が存在した、というのは、すでに史実として確定しています。
有名な事例としては「幕府山事件」と呼ばれる、第十三師団山田支隊による南京城北部で行われた、大量の投降兵(当時の公式発表で1万4千人余り)に対する「裁判抜きの大量処刑」があります。
この他にも、数多くの中小規模の「事件」の存在が知られており、いわゆる「南京事件」というのは、その総称です。
いわゆる「南京事件」の「否定派」の方々は、日本軍の公文書をはじめとする日本側史料、被害者側である中国側史料、第三者的存在である欧米諸国などの史料を、十分な根拠もないまま根こそぎ「否定」し、どうしても「否定しようのない事例」については、国際法上の「合法」を主張したりしていますが、専門家である「歴史学者」に、そうした主張を支持する方はいません。
一部の国際法学者による「合法説」も、当時の南京の実情について、きちんと検証がなされていないように思われます。
第一次安倍政権により着手された「日中歴史共同研究」では、日中双方の主張がそれぞれの学術論文としてまとめられ、PDFファイルによりネット上でも公開されています。
http://www.mofa.go.jp/mofaj/area/china/rekishi_kk.html
日本語論文のPDFから一部抜粋。
>12月10日、日本軍は南京総攻撃を開始し、最初の部隊は12日から城壁を突破して城内に進入した。翌13日、南京を占領した。
この間、中国政府高官は次々に南京を離れ、住民の多くも戦禍を逃れ市内に設置された南京国際安全区(「難民区」)に避難し、また、日本軍に利用されないために多くの建物が中国軍によって焼き払われた21。
国民政府は11月中旬の国防最高会議において重慶への遷都を決定したが、首都南京からの撤退には蒋介石が難色を示し、一定期間は固守する方針を定めた。首都衛戍司令官に任命された唐生智は、当初は南京の死守方針であり、松井司令官の開城投降勧告を拒否したが、12月11日、蒋介石から撤退の指示を受けると、12日に各所の防衛指揮官に包囲突破による撤退を命じた22。
しかし、計画通り撤退できた部隊はわずかで、揚子江によって退路が塞がれ、中国軍は混乱状態となり、多数の敗残兵が便衣に着替えて「難民区」に逃れた23。
中支那方面軍は、上海戦以来の不軍紀行為の頻発から、南京陥落後における城内進入部隊を想定して、「軍紀風紀を特に厳粛にし」という厳格な規制策(「南京攻略要領」)を通達していた。
しかし、日本軍による捕虜、敗残兵、便衣兵、及び一部の市民に対して集団的、個別的な虐殺事件が発生し、強姦、略奪や放火も頻発した。
日本軍による虐殺行為の犠牲者数は、極東国際軍事裁判における判決では20 万人以上(松井司令官に対する判決文では10 万人以上)、1947 年の南京戦犯裁判軍事法廷では30 万人以上とされ、中国の見解は後者の判決に依拠している
。
一方、日本側の研究では20 万人を上限として、4 万人、2 万人など様々な推計がなされている24。このように犠牲者数に諸説がある背景には、「虐殺」(不法殺害)の定義、対象とする地域・期間、埋葬記録、人口統計など資料に対する検証の相違が存在している25。
(引用終了)
犠牲者数については様々な議論があり、上記「日中歴史共同研究」の日本側論文では、上限で「20万人」、一番少ない数字として「2万人」が取り上げられています。
実は「なかった」、あるいは数百人などのきわめて少ない数字だった、という説は、相手にされていません。
犠牲者数について少なく見積もる研究者の代表は秦郁彦氏で約4万、大きく見積もる研究者の代表は笠原十九司氏で、10数万から約20万との見解です。
「仮にこの状況を覆すというなら歴史学界での検証に耐えうるだけの仮説を用意する必要があります。」
具体的には、例えば「学術論文」等を日本学術会議に参加する「歴史学会」に提出して評価を受ける、などの方法が考えられます。
それを実行する方はいないみたいですが。
「南京事件」については、様々な思惑により、史実を無視した見解が横行していますが、実際にはしかるべき大学の歴史学のゼミですら「事件はなかった」という主張は相手にされないのが現実です。
「南京事件」関連の写真には確かにおかしなものも存在しますが、同時代にマギー牧師が撮影したフィルムはもとより、村瀬守保氏、不動健治氏などの撮影した写真は本物と認定されています。
事件についての詳細は、ゆうさんの下記サイトもご参照いただければと思います。
「南京事件−日中戦争 小さな資料集」
http://www.geocities.jp/yu77799/
「事件はなかった」という主張は「俗説」です。
有名な事例としては「幕府山事件」と呼ばれる、第十三師団山田支隊による南京城北部で行われた、大量の投降兵(当時の公式発表で1万4千人余り)に対する「裁判抜きの大量処刑」があります。
この他にも、数多くの中小規模の「事件」の存在が知られており、いわゆる「南京事件」というのは、その総称です。
いわゆる「南京事件」の「否定派」の方々は、日本軍の公文書をはじめとする日本側史料、被害者側である中国側史料、第三者的存在である欧米諸国などの史料を、十分な根拠もないまま根こそぎ「否定」し、どうしても「否定しようのない事例」については、国際法上の「合法」を主張したりしていますが、専門家である「歴史学者」に、そうした主張を支持する方はいません。
一部の国際法学者による「合法説」も、当時の南京の実情について、きちんと検証がなされていないように思われます。
第一次安倍政権により着手された「日中歴史共同研究」では、日中双方の主張がそれぞれの学術論文としてまとめられ、PDFファイルによりネット上でも公開されています。
http://www.mofa.go.jp/mofaj/area/china/rekishi_kk.html
日本語論文のPDFから一部抜粋。
>12月10日、日本軍は南京総攻撃を開始し、最初の部隊は12日から城壁を突破して城内に進入した。翌13日、南京を占領した。
この間、中国政府高官は次々に南京を離れ、住民の多くも戦禍を逃れ市内に設置された南京国際安全区(「難民区」)に避難し、また、日本軍に利用されないために多くの建物が中国軍によって焼き払われた21。
国民政府は11月中旬の国防最高会議において重慶への遷都を決定したが、首都南京からの撤退には蒋介石が難色を示し、一定期間は固守する方針を定めた。首都衛戍司令官に任命された唐生智は、当初は南京の死守方針であり、松井司令官の開城投降勧告を拒否したが、12月11日、蒋介石から撤退の指示を受けると、12日に各所の防衛指揮官に包囲突破による撤退を命じた22。
しかし、計画通り撤退できた部隊はわずかで、揚子江によって退路が塞がれ、中国軍は混乱状態となり、多数の敗残兵が便衣に着替えて「難民区」に逃れた23。
中支那方面軍は、上海戦以来の不軍紀行為の頻発から、南京陥落後における城内進入部隊を想定して、「軍紀風紀を特に厳粛にし」という厳格な規制策(「南京攻略要領」)を通達していた。
しかし、日本軍による捕虜、敗残兵、便衣兵、及び一部の市民に対して集団的、個別的な虐殺事件が発生し、強姦、略奪や放火も頻発した。
日本軍による虐殺行為の犠牲者数は、極東国際軍事裁判における判決では20 万人以上(松井司令官に対する判決文では10 万人以上)、1947 年の南京戦犯裁判軍事法廷では30 万人以上とされ、中国の見解は後者の判決に依拠している
。
一方、日本側の研究では20 万人を上限として、4 万人、2 万人など様々な推計がなされている24。このように犠牲者数に諸説がある背景には、「虐殺」(不法殺害)の定義、対象とする地域・期間、埋葬記録、人口統計など資料に対する検証の相違が存在している25。
(引用終了)
犠牲者数については様々な議論があり、上記「日中歴史共同研究」の日本側論文では、上限で「20万人」、一番少ない数字として「2万人」が取り上げられています。
実は「なかった」、あるいは数百人などのきわめて少ない数字だった、という説は、相手にされていません。
犠牲者数について少なく見積もる研究者の代表は秦郁彦氏で約4万、大きく見積もる研究者の代表は笠原十九司氏で、10数万から約20万との見解です。
「仮にこの状況を覆すというなら歴史学界での検証に耐えうるだけの仮説を用意する必要があります。」
具体的には、例えば「学術論文」等を日本学術会議に参加する「歴史学会」に提出して評価を受ける、などの方法が考えられます。
それを実行する方はいないみたいですが。
「南京事件」については、様々な思惑により、史実を無視した見解が横行していますが、実際にはしかるべき大学の歴史学のゼミですら「事件はなかった」という主張は相手にされないのが現実です。
「南京事件」関連の写真には確かにおかしなものも存在しますが、同時代にマギー牧師が撮影したフィルムはもとより、村瀬守保氏、不動健治氏などの撮影した写真は本物と認定されています。
事件についての詳細は、ゆうさんの下記サイトもご参照いただければと思います。
「南京事件−日中戦争 小さな資料集」
http://www.geocities.jp/yu77799/
「事件はなかった」という主張は「俗説」です。