前回の記事の続きです
新宿区大久保の第二韓国広場ビル7階にある高句麗博物館にて、2009年2月7日(土)16:00~18:00、またひと月後の3月7日(土)同刻に日本の戦後責任を求める会による講演会が行われました。
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戦争終結直後の8月24日午後5時頃、京都府舞鶴湾で、海軍輸送艦・浮島丸が爆発・沈没しました。この船には、帰国する朝鮮人約4千人が乗っていました。浜にいた漁師たちがすぐに救助にむかいましたが、幼い子供を含む5百人以上の人々がなくなりました。
日本政府は、日本人乗組員の死傷者には補償しましたが、韓国人には何の補償もしませんでした。1992年~1994年、生還者と遺族たち80人が陳謝と賠償、遺骨返還を求めて、裁判を起こしました。裁判は負けましたが、いろいろなことがわかってきました。
地元では1954年から毎年、追悼会が開かれています。
http://www.40net.jp/~kourai/11%20kikakutenn/tennji-14%20ukisimamaru.html
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これは京都府舞鶴市佐波賀(さばか)で起きた事件です。
浮島丸を沈没させたのは米軍でした。
1945年、日本本土上陸作戦を前にアメリカ軍は、日本の戦争遂行能力を喪失させる目的で、日本本土の戦略爆撃に続いて機雷による海上封鎖「飢餓作戦」を行いました。この「飢餓作戦」に使用された機雷は約11,000基であり、これによって670隻以上の艦船が撃沈。この機雷は主にアメリカ陸軍の大型爆撃機B-29によって夜間に3,000フィート程度の低空からレーダーを使って落下傘投下、海底に敷設されました。
即ち、浮島丸の沈没原因は、国際法違反である米軍が設置した機雷の爆発によって船体が損傷し、浸水したことが原因でした。
当初より触雷による沈没と日米両国で公式に認められています。
終戦直後の混乱期でもあり、便乗者の数は公式記録より多い可能性があり、公式記録の被災者氏名や死者数には多少の齟齬(食い違い)がある可能性もあるとされています。
この米軍による浮島丸爆撃事件は多くの目撃者がいました。
漂流者の8~9割以上が救助もしくは自力で岸にたどり着いたという記録が残っています。機雷の爆発音で佐波賀の漁民たちは家の前の漁船を出し、漂流中の遭難者を救助したのです。
下佐波賀の漁村で暮らす梅垣障さんは当日を振り返ってこのように証言しています。
「当日はハタゴ神社の夜祭があるので、夕方から村の人が皆集まってタイマツを作っていたんです。
浮島丸が軍艦旗を上げて入ってきましたので、大きな軍艦が入ってきたなあと思っていました。外地から兵隊さんでも乗せて帰ってきたのかなあと話している時、ちょうど目の前でドカンとはじけまして〃へ〃の字型に折れ、次は反対に〃V”に折れて沈みながら、四○○メートルほど進みました。
私は工廠(舞鶴海軍工廠)に勤めていましたが、モーター付きの小さな船でその日の朝帰ってきて、船をそのままにしてあったんです。
それで爆発音が聞こえて船が沈み始めた時、さあ大変だというので一番早く船を出して、現場まで(約三~四○○メートル)行くと、海に投げ込まれていた兵隊さんだと思うのですが、『女、子供が多勢乗っている。助けに来る船は近寄らんようにしてくれ』と言うんです。その言葉で、乗っているのが男の兵隊だけでないと知ったんです。
浮島丸の沈没点に行くと、海に投げ出されたり飛び込んだりした乗客が四方から船にすがりつき、小さな船は沈没しそうになった。『すぐに他の船も来るから手を離してくれ!』とあわてて頼んでも、誰も手を離そうとはしません。それで私の船は、水が入って動かなくなってしまいました」
「救助してきた人を海岸に上げて岸よりのところに降ろすと、皆、山の方に上がっていくんですね。ここにいても大丈夫だと言っても、皆恐がって、海から離れようとするんですよ。
岸に上がって、街の方に向かって歩いていく人もいましたが、負傷している人は部落の何人かの家に頼んで寝かしてもらい、手当てをしました」
戦時中の食糧難の時代、救助した上に全員の食事を支給しろとは誰も言いません。駆逐艦「あやめ」から炊き出しとして握り飯が配給されていたことも当時の証言記録に残っています。
謎の多く残る部分も多い浮島丸沈没事件ですが、米軍の作戦が成功したことは分かっており、日米が公式に認めているわけです。
浮島丸に乗っていた鮮人たちが被害にあったからといってなぜ、日本政府が正式記録に残っている人数以上の鮮人遺族に賠償金を支払えと訴えるのか意味がわかりません。
助けられた人たちもおり、そのことに対する感謝の意は述べず、やれ賠償金支払え、やれ補償金をよこせ、永住権を与えろなどとわけのわからない要求をする。だから「ゆすり・たかり民族」と呼ばれるのです。
トルコのエルトゥールル号遭難事件は1890年(明治23年)9月16日の出来事でした。トルコは120年も前の感謝の意を日本国民に対し表し、今でも友好的な外交が続いています。
トルコのエルトゥールル号の救助に当たった和歌山県串本町沖にある、紀伊大島の人々と、浮島丸の救助にあたった佐波賀の人々の取った心は同じだと思います。
そこで船が沈みかけ、遭難者がいれば助ける。
沈没原因や遭難している人の国籍などそこには関係ないのです。
私はこのような素晴らしい救助にあたった同国民がいることを誇りに思いますし、いわれなきゆすり・たかりで金づる国家に成り下がってきた日本を悲しく思います。
情報戦に騙されず矛盾を見抜く力が必要だと思います。
辿っていけば、「日本は素晴らしい国民の集まりである」ということがわかります。
新宿区大久保の第二韓国広場ビル7階にある高句麗博物館にて、2009年2月7日(土)16:00~18:00、またひと月後の3月7日(土)同刻に日本の戦後責任を求める会による講演会が行われました。
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戦争終結直後の8月24日午後5時頃、京都府舞鶴湾で、海軍輸送艦・浮島丸が爆発・沈没しました。この船には、帰国する朝鮮人約4千人が乗っていました。浜にいた漁師たちがすぐに救助にむかいましたが、幼い子供を含む5百人以上の人々がなくなりました。
日本政府は、日本人乗組員の死傷者には補償しましたが、韓国人には何の補償もしませんでした。1992年~1994年、生還者と遺族たち80人が陳謝と賠償、遺骨返還を求めて、裁判を起こしました。裁判は負けましたが、いろいろなことがわかってきました。
地元では1954年から毎年、追悼会が開かれています。
http://www.40net.jp/~kourai/11%20kikakutenn/tennji-14%20ukisimamaru.html
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これは京都府舞鶴市佐波賀(さばか)で起きた事件です。
浮島丸を沈没させたのは米軍でした。
1945年、日本本土上陸作戦を前にアメリカ軍は、日本の戦争遂行能力を喪失させる目的で、日本本土の戦略爆撃に続いて機雷による海上封鎖「飢餓作戦」を行いました。この「飢餓作戦」に使用された機雷は約11,000基であり、これによって670隻以上の艦船が撃沈。この機雷は主にアメリカ陸軍の大型爆撃機B-29によって夜間に3,000フィート程度の低空からレーダーを使って落下傘投下、海底に敷設されました。
即ち、浮島丸の沈没原因は、国際法違反である米軍が設置した機雷の爆発によって船体が損傷し、浸水したことが原因でした。
当初より触雷による沈没と日米両国で公式に認められています。
終戦直後の混乱期でもあり、便乗者の数は公式記録より多い可能性があり、公式記録の被災者氏名や死者数には多少の齟齬(食い違い)がある可能性もあるとされています。
この米軍による浮島丸爆撃事件は多くの目撃者がいました。
漂流者の8~9割以上が救助もしくは自力で岸にたどり着いたという記録が残っています。機雷の爆発音で佐波賀の漁民たちは家の前の漁船を出し、漂流中の遭難者を救助したのです。
下佐波賀の漁村で暮らす梅垣障さんは当日を振り返ってこのように証言しています。
「当日はハタゴ神社の夜祭があるので、夕方から村の人が皆集まってタイマツを作っていたんです。
浮島丸が軍艦旗を上げて入ってきましたので、大きな軍艦が入ってきたなあと思っていました。外地から兵隊さんでも乗せて帰ってきたのかなあと話している時、ちょうど目の前でドカンとはじけまして〃へ〃の字型に折れ、次は反対に〃V”に折れて沈みながら、四○○メートルほど進みました。
私は工廠(舞鶴海軍工廠)に勤めていましたが、モーター付きの小さな船でその日の朝帰ってきて、船をそのままにしてあったんです。
それで爆発音が聞こえて船が沈み始めた時、さあ大変だというので一番早く船を出して、現場まで(約三~四○○メートル)行くと、海に投げ込まれていた兵隊さんだと思うのですが、『女、子供が多勢乗っている。助けに来る船は近寄らんようにしてくれ』と言うんです。その言葉で、乗っているのが男の兵隊だけでないと知ったんです。
浮島丸の沈没点に行くと、海に投げ出されたり飛び込んだりした乗客が四方から船にすがりつき、小さな船は沈没しそうになった。『すぐに他の船も来るから手を離してくれ!』とあわてて頼んでも、誰も手を離そうとはしません。それで私の船は、水が入って動かなくなってしまいました」
「救助してきた人を海岸に上げて岸よりのところに降ろすと、皆、山の方に上がっていくんですね。ここにいても大丈夫だと言っても、皆恐がって、海から離れようとするんですよ。
岸に上がって、街の方に向かって歩いていく人もいましたが、負傷している人は部落の何人かの家に頼んで寝かしてもらい、手当てをしました」
戦時中の食糧難の時代、救助した上に全員の食事を支給しろとは誰も言いません。駆逐艦「あやめ」から炊き出しとして握り飯が配給されていたことも当時の証言記録に残っています。
謎の多く残る部分も多い浮島丸沈没事件ですが、米軍の作戦が成功したことは分かっており、日米が公式に認めているわけです。
浮島丸に乗っていた鮮人たちが被害にあったからといってなぜ、日本政府が正式記録に残っている人数以上の鮮人遺族に賠償金を支払えと訴えるのか意味がわかりません。
助けられた人たちもおり、そのことに対する感謝の意は述べず、やれ賠償金支払え、やれ補償金をよこせ、永住権を与えろなどとわけのわからない要求をする。だから「ゆすり・たかり民族」と呼ばれるのです。
トルコのエルトゥールル号遭難事件は1890年(明治23年)9月16日の出来事でした。トルコは120年も前の感謝の意を日本国民に対し表し、今でも友好的な外交が続いています。
トルコのエルトゥールル号の救助に当たった和歌山県串本町沖にある、紀伊大島の人々と、浮島丸の救助にあたった佐波賀の人々の取った心は同じだと思います。
そこで船が沈みかけ、遭難者がいれば助ける。
沈没原因や遭難している人の国籍などそこには関係ないのです。
私はこのような素晴らしい救助にあたった同国民がいることを誇りに思いますし、いわれなきゆすり・たかりで金づる国家に成り下がってきた日本を悲しく思います。
情報戦に騙されず矛盾を見抜く力が必要だと思います。
辿っていけば、「日本は素晴らしい国民の集まりである」ということがわかります。