=== 量子論で解く碧巌録100則 ===

   碧巌録 第5則 雪峰尽大地

 

垂示:===

大凡(おおよそ)、宗教を扶竪(ふじゅ)せんには須らくこれ英霊底の漢なるべし。

人を殺すにはマバタキもせざる底の手脚(てなみ)あって、

方(はじ)めて立地に成仏すべし。

かくて照用同時、卷舒(けんじょ)ひとしく唱え、

理事不二(りじふに)、権実(ごんじつ)並び行わる。

一著を放過するは第二義門を建立す。

直下に葛藤を截断(せつだん)せば、後学初機は湊泊を為し難し。

昨日もいんも、巳むことを得ず、今日もまたいんも、罪過弥天、

若しこれ明眼の漢ならば、一点も他を漫どることを得ず。

それ或いは未だ然らずんば、虎口裏に身を横たえて喪身失命を免れず、

試みに挙す看よ。

 

本則:===

雪峰、衆に示して云く、

「尽大地撮(つま)み来(あぐ)ぐれば粟米粒の大きさなり。

面前に抛(ほうり)向(だ)すも、漆(桶不会(しっつうふえ)。

鼓(たいこ)を打って普請して看よ」

頌:

牛頭(ごず)没れ 馬頭(めず)回(か)える

曹渓鏡裏 塵埃を絶す

鼓を打って看せしめ来たれども君見えず。

百花春至って 誰がために開く

 

===== 碧巌録 第5則 雪峰尽大地 解釈 =====

 量子力学的現象はミクロの世界のことだから安易にマクロの世界に拡大するべきではないとはよく言われる教科書的主張だ。一応その通りだが、しかし、意識の宿る脳の物質的構造も勿論量子力学の原理に従う粒子によって構成されるのだから心的現象を量子力学によって説明しようという試みの全てが間違っているわけではない。その意味で量子力学は端緒からどこかスピリチュアルな趣をもって始まった学問である。

 量子状態を理解するもっとも身近で感覚的に納得できる実現例は脳内にある。

夢も見ずに深い眠りに落ちているとき、脳は量子状態に近い状態になっているはずだ。しかし残念ながら自我、つまり量子状態を目撃する主体が眠っているので、脳の白紙状態、つまり量子状態を観察することはできないだろう。

 無意識(変性意識)は夢を見ている、あるいは夢も見ずに寝ている状態とは違う。その違いは自我が明確(通常意識ほど明晰ではないが)に残っている点だ。無意識(変性意識)とは眠っているわけではないが、何らかの要因で意識が停止している状態だ。眠ってはいないので自我がはっきり残っている点が睡眠とは異なる。眠っている状態では観察する主体は不在だが、急に意識が停止した状態では観察する主体としての自我が残っている。しかし通常の意識状態よりは自我は減圧された状態だ。通常意識のように明確に主観・客観が区別できる状態ではない。その意味では自我感は希薄である。(臨死体験も変性意識の一種だが、脳波が全停止しているにも関わらず意識は残っている)量子状態を目撃するためには二つの条件、つまり通常意識が停止していること、そしてもう一つは自我が残存していること、が必要である。

 量子状態を目撃する無意識は変性意識と同じである。変性意識を外部から観察すると無意識にみえる。そして無意識の内部に入ったのが変性意識である。無意識はシュレーディンガーの波動方程式の直接の目撃者である。理論的にはそれは無限の分枝状態にある波動方程式、つまり分枝する以前の多世界そのものである。しかしエヴェレットの多世界解釈はもしこの無意識の体験を認めるならば否定されることになるだろう。なぜなら多世界は決して体験できない筈なのだから。

 波動関数を体験するということはシュレーディンガーの猫の箱の中に入ることを意味する。意識とは光子つまり電磁気速度で運動している光そのものである。しかしその意識は今は停止中だ。無意識は電磁波ではなく粒子としての光子ではない。それは干渉模様を描く波動の光子だ。だから量子系のシュレディンガーの猫の箱の中に入れるのである。勿論意識はその時、箱の外で昼寝中である。

 シュレディンガーの猫とは「無門関」である。粒子の意識は絶対に関所を通れない。しかしもし「無」となって無意識に変身するならば堂々と無門関をくぐれるのである。無門関は「収縮」の門でもある。意識が無となり眠っている間は「収縮」という無門関はあけ放たれる。

 「尽大地つまみあぐぐれば粟米粒の大きさなり。面前にほうり)だすも、漆桶不会(しっつうふえ」

 無門関のなかでは「地球も米粒のごと。放りだしても漆黒の闇」という。

 頌に云う 鼓を打って看せしめ来たれども君見えず

      百花春至って 誰がために開く