前回も『陽だまりの彼女について』感じたところをつらつら述べたが、今回も同映画について述べたい。なぜならまだ喪失感が癒えないのだ。
今回述べたいことは以下の三点である。
・『陽だまりの彼女』を観たあとの喪失感の正体は?「あまロス」とは似て非なる。
・『陽だまりの彼女』は果たして本当に「胸キュンストーリー」なのか?多くの女子はそのように感じているらしいが、僕はそんなライトなものではないと思う。
・「あまロス」の時に話題になったのだが、物語を読了した喪失感は、続きを想像することで和らげるという。しかし『陽だまりの彼女』はそのストーリーの特性上続きを想像しにくい。しかも僕は理屈ぽい人間なので、ただ単に「真緒は多分生き返った」とか「おそらく浩介はなんとか真緒のことを消化して生きていく」などでは納得できない。浩介は真緒と一緒でなければ本当の幸せを手に入れられないように描かれたキャラクターだからだ。なんとか理屈をこねくり回して、そこに近づきたい。
とにかく先日も述べたが、『陽だまりの彼女』を観てから喪失感が癒えない。あまちゃん観てなかった僕にはわからなかったけどきっと『あまロス』の人たちもこんなもんだったんだろうなあ、と思う。
ただ、『あまちゃん』は全体に明るい印象の作品だったし、きっとラストが悲劇だったってことは無いだろうから、「あまロス」はあくまで単なる「喪失」の側面の強い気持ちなんだろう。
僕が『陽だまりの彼女』に対して感じているのは「あまロス」とは少しだけ違っていて、作品世界の中で主人公二人が救われないことへの切なさというのも混じっている。すなわち、僕が『陽だまりの彼女』という映画に喪失感を抱いているだけではなくて、浩介にとって真緒という存在をロストしたことによる喪失感に、感情移入しているのだ。それは大事な恋人と別れてしまった感覚に近いのだ。
原作と映画はラストシーンが違っていて、まあ確かに原作よりも映画の方が、一見するとハッピーエンドにみえる。
だからこそ、前宣伝などは「胸キュンストーリー」として売り出されたのだろう(核心のネタバレを避けるために「切なさ」を押していなかったのかとも思ったが、映画公式サイトで十分にその切なさはネタバレされていた)。
しかし僕にはこの作品は「胸キュンストーリー」なんてライトなものではなかったし、ハッピーエンドではなかったとも思っている。
胸キュン、と言われれば、まあ確かに前半はそうだったと言える。松潤と上野樹里演じる主人公カップルは、観てる側が幸せになれるくらいの仲睦まじさで、言葉の台詞や真緒の仕草は間違いなく僕ら観衆の胸を「キュン」とさせる。
しかし、後半はどうか。「胸キュン」とかのレベルは軽く飛び越え「胸が張り裂けそう」という思いになる。切なすぎるのだ。救われないのだ。
いや、主人公である浩介は「自分は救われた」と思っているのだろうけど。
そういう意味で浩介は強いと思う。序盤は冴えないサラリーマンとして描かれるのに(演じるのが松潤だからやはりカッコ良く見えてしまうけれど)、物語を通しての成長は半端でない。
二人の結末があのような形でも、真緒との出会いを全く後悔していない。後悔しない浩介だったからこそ、唯一真緒が消えたあとも真緒のことを忘れなかったのだ。
ただ、一観衆の僕はなかなか消えない後悔にすら似た喪失感を背負っている。
大体、ああいう「消えてしまったはずの彼女と瓜二つの女性と街で会う」という手法は、ベタではあるがズルいのだ。悪いといっているのではないが、解釈を観衆に委ねすぎなのだ。
ズバリ最後に出てきた上野樹里は真緒なのか。いや、真緒でなくてはならない。真緒でないのならあのシーンは浩介をいたずらに傷つけることになるからだ。
だが、これをハッキリ描いてくれないと僕は切ないのだ。それならばいっそああいったシーンなどない方が切なくない(映画全体としては浩介の号泣がラストになってしまうので、やはりものすごく悲しくなるんだろうけど)。
誤解を招くといけない、「ロストした存在らしき存在との再会」という手法を、ダメだとして批判している訳ではない。余韻を残すいい手法だとも思うし、本作に関しては映画化にあたって改変された部分の中でもいいシーンだったとも思う。
ただ、どこかのコラムで「小説は必ずしもハッピーエンドとは言えないが、映画版は小説と違い、ハッピーエンドに仕立て上げている」という意見があった。
わからないでもないのだが、やはり僕は映画をハッピーには感じられないのだ。
だから、あの上野樹里が「ただの瓜二つの女性」であれば残酷この上ない。僕は昔付き合ってた女の子にそっくりの子を見つけたらこの上切ない気持ちになる。まして、好き同士だったのに消えてしまった相手とそっくりだなんて、きっと耐えられないだろう。
だから、あそこで上野樹里に言わせる台詞が「猫、お好きなんですか?」ではダメなのだ。足りないのだ。
だからと言って他のどんな台詞を入れれば安っぽくならず、いい映画になり、かつ僕の気持ちを満たしてくれるのかは、全く皆目見当つかないのだけれど(個人的には「浩介また会えたね」とか名前を呼んでほしいぐらいの気持ちだが、それは映画全体を恐らく貶める。「さあ新しい輪っか作ろう」とかでも安っぽいしなあ)。
いずれ、これだけ涙を流させる作品を「胸キュンストーリー」という軽い言葉で(いや、そういう『君に届け』的な作品ももちろん好きだが)表すのは、何かが違う気がするのだ。
ただ、僕が単なる「胸キュンストーリー」ではないと主張しているのは、松潤演じる浩介に感情移入しているということもあるだろう。
女子はおそらく上野樹里演じる真緒の方に感情移入している。そもそも女子はやはり女子に感情移入するだろうし、「女子が男子に読んでほしい恋愛小説No.1」に選ばれていることだって、浩介のような素晴らしい男性を彼氏に想定しているに違いないのだ。映画の特性上、浩介の視点でその内面が描かれることが多いが、それでもおそらく真緒の目で映画を追体験する女性が多いのではないだろうか。
一方やはり僕は「松潤かっけー」とは思うものの、やはり上野樹里演じる真緒の動作を恋人のように感じてしまう。言ってしまえば(松潤のファンには悪いが)、浩介に入り込んで映画の世界を体感しているのだ。
乱暴な論かもしれないが、真緒目線なら、浩介の前から消えてしまうことをそこまで辛いと思わないのではないか。自分は消えてしまうのだから。
しかし、浩介は大事な人を失った後でも生きていくのだ。小説版はその要素が強いからなおさら悲しく感じるのだ。
もし自分が老年夫婦になって、奥さんが先に死んじゃったら、自分が先に死ぬより悲しいだろうな、と思う。つまりそういうことだ。
だから、この作品は、女子にとっては「胸キュンストーリー」かもしれないが、男子にとっては「これ以上ないほどの胸が張り裂けそうなストーリー」なのだ。
しかし、やはり浩介は女子にとって理想の彼氏だろうなと思う(というか、あんないい男が中学でいじめられたりモテなかったりするはずがないから、むしろ理想を通り越して妄想のレベルかもしれない)。
それに比べると、現実世界にいる男、少なくとも僕なら浩介のようにいられるとは思えない。めめしく引きずるだろう。浩介を見習いたいと思う。
ただ、物語の中で浩介は成長した、と述べた。真緒との再会が浩介を成長させたのだ。
序盤は、決して理想的な存在とは言えなかっただろう。
昔は勉強を教えていた真緒が自分より高いところに行っているような形だった。仕事の面でも外見も、真緒は素晴らしく成長していた。
仕事でも今ひとつうだつの上がらない浩介、デートで手を引っ張られる浩介、真緒の辛さに気づいてやれない浩介、そういえばマンションから落ちそうになったシュウ君を助けたのも奮闘していた浩介でなく結局真緒だった。
見えづらいが中盤までは、真緒が関係性の上ではリードする関係だったのではないだろうか。
だが、いなくなった真緒を捜し当てた浩介。「思い出なんてすぐ消えちゃうよ」と言う真緒の手を引き、最後のデートに連れて行く浩介は、初めて真緒をリードする立場になったのではないか。
まあ、どちらかがリードする関係が良いとか悪いなんてことは決してない。だが、浩介が序盤からだんだんと、自信のある男性に成長していっていることは間違いないだろう。
そんな浩介も、いよいよ真緒との思い出のジャングルジムに再び来たとき弱音を見せる。「キスしたら輪っかが閉じちゃう気がして」と。
真緒は「また2人で新しい輪っかを作ろう」と言葉をかける。ううむ、やはり真緒の方がリードしている。
まあでも、浩介は充分に成長して素晴らしい男になった。
これが「女子が男子に読んでほしい恋愛小説No.1」の所以でもあるのだろう。
真緒が浩介に再会できたのは偶然などではない。必死に浩介に再会することを臨んでいた賜物だ。
だが真緒が人間になったのは神のいたずらか謎の老婆の魔法かはわからないが、いずれも不確実なものによるものだ。
ならば、なんらかの奇跡が真緒を人間にしたのなら、これだけ成長した浩介に真緒を再会させるような奇跡があってもいいだろう。
どういう形かは分からないが、猫が九回生き返るという奇跡が起きても、あの世界ならば不思議ではない。
願わくばそれが、来世とかいう遠い未来のことではなく、今世近いうちになんらかの形で、違う存在への生まれ変わりなどでなく浩介と真緒として再会してほしい。そういうあの作品の中の世界を、僕は切に願うのだ。
ということでまとめると、
・僕が感じている喪失感は「あまロス」とは異なり、単なる好きな作品を読了したというものではない。男だから浩介に感情移入してしまったことで、より強い切なさとなっている。だから女子的な「胸キュンストーリー」なんてライトな言葉では表せないのだ。
・真緒が人間になったのは浩介を想うが故の奇跡である。そんな奇跡があるなら、真緒と浩介が再会できる奇跡だってあってもいいだろう。
素晴らしい映画を観に行くと、エンドロールのときから数日間強い喪失感を持つ。
好きなドラマの最終回のときにも同じような感覚に陥るが、映画はよりそれが強い。おそらくドラマは放映期間の3ヶ月のうちに心の準備ができるし、昨今の事情を鑑みると映画よりドラマは続編が作られやすいってのもあるだろう。ドラマより映画の方が、話の巧みさよりも感情を揺さぶるような感動の要素が求められがちなこともあるかもしれない。
素晴らしい映画は心の栄養だが、この喪失感は心にとって良いものではない。
そして僕は今かなり強い喪失感を抱いている。
心にとって良いものでない感情は、文章にすることでカタルシス効果があるのだという。辛いことを作文に書くと、辛さが和らぐんだそうだ。
せっかくなので、映画の感想文も兼ねてちょっと駄文をつらつら書いてみようと思う。
映画の感想の前に。
数年ほど前、携帯小説が流行した際、その映画化が頻繁に行われた。
僕はそういう、やたらと人が死ぬラブストーリーで安易な感動みたいなものを叩き売るようなムーヴメントが大嫌いだったし、人が死ぬことで本当に感動するのならば、精神が病んでいるのだとも思っていた。正直今でもかなりそう思っている。
だから人が死ぬようなあらすじの映画や小説は基本的に観ないし読まない。
ただ、最近は必ずしもそうでもないとも思うようになってきている。『アルマゲドン』が名作であるように、主要人物の死という要素がもたらす感動は、必ずしも嘘っぱちではないし、安いものではない。死に感動しているというと聞こえが悪いが、死というものは良くも悪くも心に影響を与えるものだ。映画においてもやはり死は死でしか描けないということなのだろう。メメント・モリというやつなのだ。
さて、映画『陽だまりの彼女』である。なるべく結末を明かすようなことは避けようと思うが、そういうのに敏感な方はこの続きを読むのを止めていただいた方がいいかもしれない。メインの種明かしはしないつもりだが、感想を書く上ではそれに付随する様々な事象を明らかにせざるを得ない。
僕自身は、実は小説を事前に立ち読みして大体の内容は知っていたのだけれど、それでもやはり泣いた。
ただ、小説を読んでいない人は、事前知識を入れずに映画を観た方がいいのかもしれない。小説もいいのだが、松潤と上野樹里の演技がとても良かったからだ。
小説を読んだときにさながら「ニコイチ車」のような印象を持った。悪い意味ではない。だが、前後半で同じ話だとは考えられないほど超展開だったのだ。
the pillowsの曲に、「smile」という曲がある。それほど有名な曲でもないのだが、ファンの間では超展開を持つとして知られた名曲だ。
キミは自由だよ、と語りかけるところから始まる甘いバラードかと思いきや、途中で「クタバレニンゲンドモ」というボーカル山中の奇声が入り、激しいロック調に展開するのだ。
『陽だまりの彼女』は、そこまで殺伐とはしていないものの、超展開という点ではそれと似たような感覚を想起させる。
前半は、このまま月9にできそうなくらいの甘いラブストーリーが進行する。僕としてはこれだけでも『君に届け』に匹敵する名作だと思っている。『リッチマン・プアウーマン』のような、現代版トレンディドラマのような雰囲気もあって、とにかく松潤と上野樹里カップルの仲睦まじさに胸キュンなのだ。
だが後半は、これ以上ないほどの切なさとファンタジーを兼ねた物語になる。この物語が一筋縄のラブストーリーでない所以はそこにある。
しかし、その前半と後半の繋ぎ方はクロスフェーダーのごとく驚くほど滑らかで、ほとんど違和感を覚えない。原作者も脚本家も監督も、上手いとしか言いようがない。
個人的に、僕はこの映画を見て松潤が前より好きになった。もともと結構ジャニーズの中でも割と好きな方だが、演技が良かった。ハマり役だったのかもしれないが、松潤演じる浩介の人柄と重ね合わさって、なんとなく素敵に見えた。本作によっておそらく松潤の好感度は上がったと思う。
あっ、特に前半だが、上野樹里の演技もかわいかった。のだめだけじゃないんだね。
モテない男が女優の胸キュン演技についてあまり語ると気持ち悪いと思うので今回は抑えるが、
・偶然でも会えて嬉しかった、という主人公に、「偶然なんかないよ」とキス
・無言で自分の隣の場所をポンポンと叩いて主人公を誘導
・わざと電車から降りて「あーあ、終電なくなっちゃった」
・一年に一回来たとしても、あと五十回は来れるな、という主人公に対し、「そゆこと?」
この四点の破壊力はヤバかった。あんな感じで女の子に言われたら、男冥利に尽きるというやつだ。うん、僕もそうだが、男って結構単純なのだ。あざといまでの演技がかったかわいさに、わりかしグッときたりもするのだ。
さておき、松潤演じる浩介は、序盤は少し引っ込み思案気味だが、何があってもひたむきに上野樹里演じるヒロインの真緒を愛し続ける。男から見ても素直に、こういう彼氏は素晴らしいんだろうなと脱帽する。
もちろんそれは、浩介だけじゃなく、真緒も一緒にひたむきだからなんだろうけれど。
一旦話は変わるが、僕は洟垂れ小僧の時から音楽を嗜んでいる。
音楽は大好きだ。おそらく僕はずっとこれを趣味としていくだろう。
しかしそれでも、音楽という趣味を持ってなければ良かった、と思うことは多々ある。お金や時間はたくさん費やすし、そのために強いコンプレックスも抱えた。
好きだけど、好きにならなければよかった。そういう感情って、案外身の回りに溢れているんじゃないだろうか。
人間は、守るべきものが多くなればなるほど弱くなってしまう。好きなものができれば、壊れやすくなってしまうものだと思う。
映画の話に戻ろう。
捉え方は様々あれど、僕はハッピーエンドではなかったと考えている。
そもそも浩介と真緒が出会わなければ、好きにならなければ、再会しなければ、ああいう結末を迎えることはなかったのだ。僕はこの上なく切ない話だったという印象だ。
もし僕みたいなめめしいやつがこの作品を作ったならば、主人公に「俺と真緒は、出会わない方がよかったのかな」という台詞を言わせるか、言わせないまでも心理描写してしまうだろう。こんな辛い思いをするならいっそ、と。
しかし、浩介は、後悔する言葉は最後まで一言も言わなかった。真緒の方がむしろ言うのだ。「思い出なんてすぐ消えちゃうよ」と。しかし、浩介は決して後悔しない。
序盤で浩介は昔の自分を「俺は逃げたんだ」と評する。きっと浩介はその根底に後悔がある。真緒から目を背けた過去への後悔。だからきっと、今度は後悔しないのだ。
後悔のない浩介の姿は強い。泣きじゃくる姿さえ強い。そして、後悔のない浩介だからこそ、忘れないのだ。消えるはずの思い出も消えないのだ。きっとそうなんだと思う。
そんな訳で、浩介のキャラクターが非常にいい。それを演じる松潤の演技もいい。ちなみに僕は、愛情深い真緒の義両親に言った「真緒っていい名前だと思います」という台詞のシーンが一番ぐっときた(その後の展開を考えると、少し懐疑的な箇所でもあるのだが)。
ところで、本作にもあったが、よくドラマや映画のラストシーンに用いられる手法で、死んだり、消えてしまったりした登場人物に瓜二つの人物と、すれ違ったり、言葉を交わしたりして終わる、という手法がある。
なぜそういう手法を取るのか。
小説や映画を作る側がどう考えているのかは分からないし、あえてそういう手法を取るということはきっと感じ方や解釈は視聴者や読者に委ねるという、オープンエンド的な側面が強いのだと思う。
だが、それに加えて、あまりに切ないストーリーに「救い」を持たせるため、という側面も、少なからずあるような気がする。むろん、死んだり消えたりした筈の人間ともう一度出会えた、と取るか、あるいは違う人間だけれど瓜二つの人間と出会えたことで主人公が立ち直るきっかけになる、と取るか、いろいろな解釈はあると思うが。
ただ、僕はあの手法、あまり好きではない。逆に切なくなってしまうのだ。
人間はそれぞれが唯一無二である。誰かが誰かの代わりをすることなど出来ない。一卵性の双子のきょうだいも全く違う人間だ。
仮に姿形から性格まで完璧に同じクローン人間が新たに作り出されたとしても、それはやはり違う人間だ。なぜなら、その段階まで全く同じでも、次の瞬間に呼吸の足並みはずれる。呼吸のタイミングがずれたら、一回に吸い込む酸素の量も変わる。そうすれば思考も身体活動ももはや違う。それは既に違う人間だ。
まあ極端な例を出したが、一個体の人間ならば、同じ者は存在しえない。だから、誰もが誰かの代わりになどなれない。僕はそう考える。
そう考えたときに、うまく言えないのだが、無くしてしまったはずの大切な人と瓜二つの人間に出会うなんて、残酷であること限りないと思うのだ。瓜二つの人は無くした人にはなれない。代わりはできないのだ。
だから、「瓜二つの人間と出会うこと」が「救い」になるのは、全く同じ人間である場合だけなのだ。すなわち、やはり死んでなかった、とか消えてなかった、という場合のみに限られるのだ。ただし、それは一歩間違うと映画全体を安っぽいものにしてしまう恐れもはらんでいる。それをオープンエンド的にしてしまうことで回避するなんて、制作側はズルいと思うのだ。
ハッピーエンドでなかったと感じたのはそういう理由もある。
映画は素晴らしかった。それだけに、安易でベタな手法が気になってしまった。
僕はフィクションを読んだり観ていたりしても、時間経過や人間の感情、法律との兼ね合いなどにどうしても整合性や現実味を求めてしまうので、重箱の隅をつつくようなところが気になってしまうのだ。ポニョが人間になる魔法は認めても、ポニョと宗介が結婚するためにはまずなんとかポニョが戸籍を取得しなければならないと考えてしまうのだ。
しかし、繰り返すが映画は素晴らしかった。ラストシーンの他に二点ほど懐疑的な部分もあるのだが(真緒がシュウ君を庇ってマンションから落ちた時に、周りの人が誰も真緒に気遣わず(存在が消えて見えていないということなのか?)、浩介すら真緒の問いかけに対して何も答えないということと、あれほど愛情深い真緒の両親が、あっさりと真緒の存在を忘れてしまうこと)、そこが気にならないほど作品としての完成度が十二分に補っていた。
とりあえず僕にとっては、今まで観た映画の中で、最も泣かされた作品だったかもしれない。気持ちの面では非常にハマった。
ただ、切なすぎてあまり再び観たくない、という気持ちも、正直生まれてしまった。僕はどうやら、この映画に対しても「好きだけど好きにならなければ良かった」という感情を持ってしまったらしい。
作品に対してこんな感情を持つのは、中学のとき読んだ『最終兵器彼女』というマンガ以来である。
ところで、映画館に行ったら、入場特典で、高畑勲の『かぐや姫の物語序章』というブルーレイとDVDが入ったパックを貰った。凄い力入れてるなあと思う。早く見てみたいとも思う。
ただ、多くの方が楽しみにしている感情とは異なり、ジブラーの僕としては現段階では不安も大きい。
『かぐや姫』あるいは『竹取物語』、言ってしまえば日本最古の物語だ。日本人なら誰もが知っている話だろう。その既に知っている話を、あえて映画にして、果たして退屈なものにならないのだろうか。
「いやいや、かぐや姫の罪と罰という、新たなるリライト要素があるじゃないか」という意見もあるだろうが、マンガをどれだけ忠実に実写化しても批判される時代に、日本一有名な物語を改変することが果たして好意的に受け取られるかも不安なのだ。
そもそもパクさんの作る話は駿の作る話より大衆受けしにくい。その分風刺が効き、温故知新の精神も強いので、題材はうってつけなのかもしれないが。
真のジブラーとしては「駿なきジブリは終わった」と言われるのは本意でないのだ。
好きなドラマの最終回のときにも同じような感覚に陥るが、映画はよりそれが強い。おそらくドラマは放映期間の3ヶ月のうちに心の準備ができるし、昨今の事情を鑑みると映画よりドラマは続編が作られやすいってのもあるだろう。ドラマより映画の方が、話の巧みさよりも感情を揺さぶるような感動の要素が求められがちなこともあるかもしれない。
素晴らしい映画は心の栄養だが、この喪失感は心にとって良いものではない。
そして僕は今かなり強い喪失感を抱いている。
心にとって良いものでない感情は、文章にすることでカタルシス効果があるのだという。辛いことを作文に書くと、辛さが和らぐんだそうだ。
せっかくなので、映画の感想文も兼ねてちょっと駄文をつらつら書いてみようと思う。
映画の感想の前に。
数年ほど前、携帯小説が流行した際、その映画化が頻繁に行われた。
僕はそういう、やたらと人が死ぬラブストーリーで安易な感動みたいなものを叩き売るようなムーヴメントが大嫌いだったし、人が死ぬことで本当に感動するのならば、精神が病んでいるのだとも思っていた。正直今でもかなりそう思っている。
だから人が死ぬようなあらすじの映画や小説は基本的に観ないし読まない。
ただ、最近は必ずしもそうでもないとも思うようになってきている。『アルマゲドン』が名作であるように、主要人物の死という要素がもたらす感動は、必ずしも嘘っぱちではないし、安いものではない。死に感動しているというと聞こえが悪いが、死というものは良くも悪くも心に影響を与えるものだ。映画においてもやはり死は死でしか描けないということなのだろう。メメント・モリというやつなのだ。
さて、映画『陽だまりの彼女』である。なるべく結末を明かすようなことは避けようと思うが、そういうのに敏感な方はこの続きを読むのを止めていただいた方がいいかもしれない。メインの種明かしはしないつもりだが、感想を書く上ではそれに付随する様々な事象を明らかにせざるを得ない。
僕自身は、実は小説を事前に立ち読みして大体の内容は知っていたのだけれど、それでもやはり泣いた。
ただ、小説を読んでいない人は、事前知識を入れずに映画を観た方がいいのかもしれない。小説もいいのだが、松潤と上野樹里の演技がとても良かったからだ。
小説を読んだときにさながら「ニコイチ車」のような印象を持った。悪い意味ではない。だが、前後半で同じ話だとは考えられないほど超展開だったのだ。
the pillowsの曲に、「smile」という曲がある。それほど有名な曲でもないのだが、ファンの間では超展開を持つとして知られた名曲だ。
キミは自由だよ、と語りかけるところから始まる甘いバラードかと思いきや、途中で「クタバレニンゲンドモ」というボーカル山中の奇声が入り、激しいロック調に展開するのだ。
『陽だまりの彼女』は、そこまで殺伐とはしていないものの、超展開という点ではそれと似たような感覚を想起させる。
前半は、このまま月9にできそうなくらいの甘いラブストーリーが進行する。僕としてはこれだけでも『君に届け』に匹敵する名作だと思っている。『リッチマン・プアウーマン』のような、現代版トレンディドラマのような雰囲気もあって、とにかく松潤と上野樹里カップルの仲睦まじさに胸キュンなのだ。
だが後半は、これ以上ないほどの切なさとファンタジーを兼ねた物語になる。この物語が一筋縄のラブストーリーでない所以はそこにある。
しかし、その前半と後半の繋ぎ方はクロスフェーダーのごとく驚くほど滑らかで、ほとんど違和感を覚えない。原作者も脚本家も監督も、上手いとしか言いようがない。
個人的に、僕はこの映画を見て松潤が前より好きになった。もともと結構ジャニーズの中でも割と好きな方だが、演技が良かった。ハマり役だったのかもしれないが、松潤演じる浩介の人柄と重ね合わさって、なんとなく素敵に見えた。本作によっておそらく松潤の好感度は上がったと思う。
あっ、特に前半だが、上野樹里の演技もかわいかった。のだめだけじゃないんだね。
モテない男が女優の胸キュン演技についてあまり語ると気持ち悪いと思うので今回は抑えるが、
・偶然でも会えて嬉しかった、という主人公に、「偶然なんかないよ」とキス
・無言で自分の隣の場所をポンポンと叩いて主人公を誘導
・わざと電車から降りて「あーあ、終電なくなっちゃった」
・一年に一回来たとしても、あと五十回は来れるな、という主人公に対し、「そゆこと?」
この四点の破壊力はヤバかった。あんな感じで女の子に言われたら、男冥利に尽きるというやつだ。うん、僕もそうだが、男って結構単純なのだ。あざといまでの演技がかったかわいさに、わりかしグッときたりもするのだ。
さておき、松潤演じる浩介は、序盤は少し引っ込み思案気味だが、何があってもひたむきに上野樹里演じるヒロインの真緒を愛し続ける。男から見ても素直に、こういう彼氏は素晴らしいんだろうなと脱帽する。
もちろんそれは、浩介だけじゃなく、真緒も一緒にひたむきだからなんだろうけれど。
一旦話は変わるが、僕は洟垂れ小僧の時から音楽を嗜んでいる。
音楽は大好きだ。おそらく僕はずっとこれを趣味としていくだろう。
しかしそれでも、音楽という趣味を持ってなければ良かった、と思うことは多々ある。お金や時間はたくさん費やすし、そのために強いコンプレックスも抱えた。
好きだけど、好きにならなければよかった。そういう感情って、案外身の回りに溢れているんじゃないだろうか。
人間は、守るべきものが多くなればなるほど弱くなってしまう。好きなものができれば、壊れやすくなってしまうものだと思う。
映画の話に戻ろう。
捉え方は様々あれど、僕はハッピーエンドではなかったと考えている。
そもそも浩介と真緒が出会わなければ、好きにならなければ、再会しなければ、ああいう結末を迎えることはなかったのだ。僕はこの上なく切ない話だったという印象だ。
もし僕みたいなめめしいやつがこの作品を作ったならば、主人公に「俺と真緒は、出会わない方がよかったのかな」という台詞を言わせるか、言わせないまでも心理描写してしまうだろう。こんな辛い思いをするならいっそ、と。
しかし、浩介は、後悔する言葉は最後まで一言も言わなかった。真緒の方がむしろ言うのだ。「思い出なんてすぐ消えちゃうよ」と。しかし、浩介は決して後悔しない。
序盤で浩介は昔の自分を「俺は逃げたんだ」と評する。きっと浩介はその根底に後悔がある。真緒から目を背けた過去への後悔。だからきっと、今度は後悔しないのだ。
後悔のない浩介の姿は強い。泣きじゃくる姿さえ強い。そして、後悔のない浩介だからこそ、忘れないのだ。消えるはずの思い出も消えないのだ。きっとそうなんだと思う。
そんな訳で、浩介のキャラクターが非常にいい。それを演じる松潤の演技もいい。ちなみに僕は、愛情深い真緒の義両親に言った「真緒っていい名前だと思います」という台詞のシーンが一番ぐっときた(その後の展開を考えると、少し懐疑的な箇所でもあるのだが)。
ところで、本作にもあったが、よくドラマや映画のラストシーンに用いられる手法で、死んだり、消えてしまったりした登場人物に瓜二つの人物と、すれ違ったり、言葉を交わしたりして終わる、という手法がある。
なぜそういう手法を取るのか。
小説や映画を作る側がどう考えているのかは分からないし、あえてそういう手法を取るということはきっと感じ方や解釈は視聴者や読者に委ねるという、オープンエンド的な側面が強いのだと思う。
だが、それに加えて、あまりに切ないストーリーに「救い」を持たせるため、という側面も、少なからずあるような気がする。むろん、死んだり消えたりした筈の人間ともう一度出会えた、と取るか、あるいは違う人間だけれど瓜二つの人間と出会えたことで主人公が立ち直るきっかけになる、と取るか、いろいろな解釈はあると思うが。
ただ、僕はあの手法、あまり好きではない。逆に切なくなってしまうのだ。
人間はそれぞれが唯一無二である。誰かが誰かの代わりをすることなど出来ない。一卵性の双子のきょうだいも全く違う人間だ。
仮に姿形から性格まで完璧に同じクローン人間が新たに作り出されたとしても、それはやはり違う人間だ。なぜなら、その段階まで全く同じでも、次の瞬間に呼吸の足並みはずれる。呼吸のタイミングがずれたら、一回に吸い込む酸素の量も変わる。そうすれば思考も身体活動ももはや違う。それは既に違う人間だ。
まあ極端な例を出したが、一個体の人間ならば、同じ者は存在しえない。だから、誰もが誰かの代わりになどなれない。僕はそう考える。
そう考えたときに、うまく言えないのだが、無くしてしまったはずの大切な人と瓜二つの人間に出会うなんて、残酷であること限りないと思うのだ。瓜二つの人は無くした人にはなれない。代わりはできないのだ。
だから、「瓜二つの人間と出会うこと」が「救い」になるのは、全く同じ人間である場合だけなのだ。すなわち、やはり死んでなかった、とか消えてなかった、という場合のみに限られるのだ。ただし、それは一歩間違うと映画全体を安っぽいものにしてしまう恐れもはらんでいる。それをオープンエンド的にしてしまうことで回避するなんて、制作側はズルいと思うのだ。
ハッピーエンドでなかったと感じたのはそういう理由もある。
映画は素晴らしかった。それだけに、安易でベタな手法が気になってしまった。
僕はフィクションを読んだり観ていたりしても、時間経過や人間の感情、法律との兼ね合いなどにどうしても整合性や現実味を求めてしまうので、重箱の隅をつつくようなところが気になってしまうのだ。ポニョが人間になる魔法は認めても、ポニョと宗介が結婚するためにはまずなんとかポニョが戸籍を取得しなければならないと考えてしまうのだ。
しかし、繰り返すが映画は素晴らしかった。ラストシーンの他に二点ほど懐疑的な部分もあるのだが(真緒がシュウ君を庇ってマンションから落ちた時に、周りの人が誰も真緒に気遣わず(存在が消えて見えていないということなのか?)、浩介すら真緒の問いかけに対して何も答えないということと、あれほど愛情深い真緒の両親が、あっさりと真緒の存在を忘れてしまうこと)、そこが気にならないほど作品としての完成度が十二分に補っていた。
とりあえず僕にとっては、今まで観た映画の中で、最も泣かされた作品だったかもしれない。気持ちの面では非常にハマった。
ただ、切なすぎてあまり再び観たくない、という気持ちも、正直生まれてしまった。僕はどうやら、この映画に対しても「好きだけど好きにならなければ良かった」という感情を持ってしまったらしい。
作品に対してこんな感情を持つのは、中学のとき読んだ『最終兵器彼女』というマンガ以来である。
ところで、映画館に行ったら、入場特典で、高畑勲の『かぐや姫の物語序章』というブルーレイとDVDが入ったパックを貰った。凄い力入れてるなあと思う。早く見てみたいとも思う。
ただ、多くの方が楽しみにしている感情とは異なり、ジブラーの僕としては現段階では不安も大きい。
『かぐや姫』あるいは『竹取物語』、言ってしまえば日本最古の物語だ。日本人なら誰もが知っている話だろう。その既に知っている話を、あえて映画にして、果たして退屈なものにならないのだろうか。
「いやいや、かぐや姫の罪と罰という、新たなるリライト要素があるじゃないか」という意見もあるだろうが、マンガをどれだけ忠実に実写化しても批判される時代に、日本一有名な物語を改変することが果たして好意的に受け取られるかも不安なのだ。
そもそもパクさんの作る話は駿の作る話より大衆受けしにくい。その分風刺が効き、温故知新の精神も強いので、題材はうってつけなのかもしれないが。
真のジブラーとしては「駿なきジブリは終わった」と言われるのは本意でないのだ。
