自由民権運動の士、板垣退助の


青年期より晩年に至までの生涯を描いた小説を読んでいます。



以前に、中岡慎太郎との話ではじまった件(くだり)を書きましたが、


退助が、特に倒幕後の新政府軍を率いて、


旧幕府軍との戦いである戊申戦争において


格別の働きにより、それまでの土佐を動かしていた、


後藤象二郎をはじめ、維新の功労者各士を越え、


土佐を動かし、新政府の重鎮になっていくストーリから、


新政府の歯車が少しずつ狂い、


西郷隆盛、江藤新平らの下野に伴い退助も中央から離脱しましたが、


その時より、新しく民を中心とする政権の構想に着手し、


やがて、土民均一(人民均一)の民権運動に至るストーリーです。


民権運動を立ち上げるまでのその間、


一旦は中央に復するも、ふたたびの中央離脱後、


西南の役による最後の古武士が壊滅したあとに、


いよいよ民権運動の日の目を見ることになったわけです。。


このドラマは、西南戦争のあと、


今までの日の本の国になかった闘争が武器によるものではなく、


思想の闘いすなわち言論戦の夜明けによるものをあらわしたものです。


退助が言論戦の闘士になり得たのも、


土佐の気質がもともと論議好きであったものです。



これは、坂本龍馬に代表されるように、


土佐の厳しい身分階級から現状を打開するため、


しきりに、権力よりの闘争を繰り返し、


自由を勝ち取ろうとしていたことに現れます。


武市半平太に代表される勤王党も、武闘派と思われがちですが、


その実、武市自身が主君である容堂公に何度も建白書を提出し、


主君との議論を交わしていたことにあらわれます。


しかし、悲劇は主従の関係が最後まで良好とはいえなかったことです。


ただその後、維新を迎え封建社会の崩壊とともに、


新世紀の夜明けとして、それ以前に比べると、


少しは論議を交わすことが出来る世の中になりました。


土佐はその魁(さきがけ)となり得たのです。



高知市にある『高知市立自由民権記念館』には、


“自由は土佐の山間より”と言う文字が眼に引きます。


これは、退助の話の中にも登場する、植木枝盛(うえきえもり)の言葉ですが、


土佐からは、かなりの論客が出て自由民権運動も盛んであったようです。


そのうちの一人で『龍馬伝』にも出てくる人物で、龍馬の生涯をはじめて世に知らしめた


「坂崎紫瀾(さかざきしらん)」も名を連ねていたようです。


退助は、岩崎弥太郎路線のような商売路線とは違う、


民を拠り所にしたした政治社会の構築を立ち上げた


その後の龍馬伝と言えますね!


そして、奇しくも第2の維新と言える


第2次世界大戦後の敗戦国日本を


戦勝国アメリカよりの真の独立講和を実現させた、吉田茂首相も土佐の出身です。


退助の話しの中にもその名が登場してきます。


このドラマは時代で言えば、『龍馬伝』と『坂の上の雲』の間を縫うお話でした。