寒波が襲ってきたので、寒がりのボクは耐えられない
寒波は、財布の中にまで侵入してきたのだ。
まず、諭吉さんが凍死し、一葉さんは女性らしく貧乏な男なんて嫌いよと家出。頼みの綱の野口英世博士までが野口五郎の追っかけで行方不明になっちまった。
こんなこっちゃあクリスマスのケーキも食べられないし、正月も越せない。
ボクが寒さで飢え死にしたら世界中の女性たちが悲しむので、漢気(おとこぎ)のある方、勇気を奮ってカンパしてください。
67年5月、米軍放送から Jefferson Airplane の Somebody To Love という曲ががんがん流れてきた。
たちまち夢中。
輸入盤を買うという発想がまだなかったので、テープレコーダーに録音して一日中聴いていた。
邦盤は3か月後の8月。日本でもすぐに大ヒットしたが、「もう聞き飽きてるぜ~ 」という子供の自負心から買わなかった。
後で知ったのだけど、最初の邦盤ジャケはグレース・スリックの代わりに、辞めたシグニ・アンダーソンの写真を使っていた。
彼らの1枚目のアルバム Takes Off の写真だ。
勘違いに気づいたのだろう。その年のうちに差し替えたジャケが発売された。
シングル盤の顔を見たのはどちらも後になってからだ。
代わりにアルバム Surrealitic Pillow を買った。
このバンドは大好きだったので、音楽性が変わるスターシップになるまで聴き続けた。
ジェファーソン・エアプレインがスターシップとホット・ツナに分裂してからは、ホット・ツナが好きだったので、80年代半ば過ぎ、新宿ルイードで演ったライヴに行けなかったのを未だに後悔しているくらいだ。
JAは65年に結成されて、バンドリーダーでもあったマーティン・ベイリンのロスのナイトクラブ「マトリックス」で演奏をしていた。
このクラブに登場したのが同じころに結成された Great Society だ。
グレース・スリックが夫らとともに(彼女は既に結婚していた)始めたバンドだ。
65年から66年のことで、当初から両者は知り合いだった。
66年、Signe Anderson が妊娠・育児のためにバンドを離れることになり、跡をついだのがグレース・スリック。
彼女が加わったことで、グレイト・ソサイエティの2つの名曲もJAが演ることになった。
そのひとつが Somebody To Love(あなただけを)で、グレイト・ソサイエティ唯一のシングルレコード(曲名は Someone To Love)だが、彼らのシングルは何の評判も生まなかった。
それがJAのアレンジによって全米大ヒットするのだから何が幸いするか分からない。
おまけにJAもこの曲の大ヒットで、それまでのアングラバンドからメジャーバンドへと出世した。
その後のことはロックファンなら誰でも知っている。
グレイト・ソサイエティはといえば、このバンドはグレース・スリックのカリスマ性で持っていたバンドなので、彼女が去ったあとの66年秋に解散した。
が、グレース・スリックが大スターになったので、このバンドにも早くから光が当てられた。
前述したように表に出た音源はシングル1枚しかなかったが、ライヴ音源が残っていて、それが出回るようになったのだ。
グレース・スリックがJAに持ち込んできたもう1曲が彼女が書いた White Rabbit で、JAヴァージョンが力強いとすれば、こちらはインド風のアレンジを加えたリリカル。
Someone To Love とは違って好みが分かれる出来だ。
ボクはどちらかといえばグレイト・ソサイエティのオリジナルの方が好きかな。