川喜多夫妻の旧居は、現在「鎌倉市川喜多映画記念館」として、市が管理している。
館内にミニシアター(と言っても画面が大きく椅子もゆったり)があり、ここで「去年マリエンバートで」を上映するというので、初めて記念館の中に入った。
4Kリマスター版というのが出来、去年公開されていたのも初めて知った。
ボクの学生時代、「難解な映画」として語り継がれていたのだけど、今度40年ぶりに見たら、拍子抜けするほど分かりやすい映画だった。
脚本を書いたロブ=グリエや監督したアラン・レネの種明かしに沿った解説が主流だと思うので、ボクは別の見方を提示しよう。
それは現代のオルフェウス神話を語った映画、という視点だ。
夫が女を射殺するシーンがワンカット挿入されていることで分かるように、映画の中の世界はハデスの支配する世界だと思った方が良いと思うのだ。
冒頭から何度か繰り返される長い廊下は、オルフェウスの冥府下りの比喩として読めばいいし、男が「去年お会いしましたね。覚えていますよね」と女に問いかけるのは、そのままオルフェウスとエウリュディケの関係だと捉えればいい。
彼岸の世界に渡った人間が、此岸の記憶をそのまま持っていくとは思わないからだ。
過去と現在が入り混じって時間感覚が狂うのも、黄泉の国では時間が流れず過去も現在も無いからだ。
神話の中のエウリュディケはオルフェウスを覚えているが、映画の中の女は覚えていない。
それもボクには普通に思えるし、男に説得されてだんだん会った気になっていくのも、彼岸の世界なら普通に思えるのだ。
何よりも庭の風景をよく見てほしいのだが、あまりにも静寂に包まれすぎている。
植物や彫像には影がないのに、人物にだけ影あるのはなぜだろうか。
影は生者(しょうじゃ)の世界にだけあるものだ。
映像では何組かの人物の影が見えるが、ここは男と女、オルフェウスとエウリュディケ2人だけの影に収斂した方が分かりやすい。
作家が提示したものを組み替えるのは読者の特権だからだ。
そして3人目の人物、女の夫と思しき人物は奇妙なゲーム(ニムゲームというそうだが)に絶対に負けない。
ボクは男と夫のゲーム姿に、ベルイマン監督「第七の封印」の騎士と死神のチェスゲームを思い出していた。
死神も「神」だ。
人は神には勝てない。
だから男も夫には勝てない。
ラスト、男は女と去っていくが、ハデスがオルフェウスに与えた許しと同じものだと思えばよい。
彼らが此岸に戻ってこれるのか来れないのか、それは分からない。
しかし、ほんとは解釈なんかどうでもよくて、ボクは映画の中の豪奢な調度品やシャネルのファッションに目を奪われていた。
今日の話にぴったりの曲がある。
何度か紹介している Avalon Jazz Band で、Qu'est-ce qu'on attend pour être heureux?