坂口安吾と吉田秋生と釣り堀・・・The Vejtables | 洋楽と脳の不思議ワールド

洋楽と脳の不思議ワールド

マイナーな60年代ビートミュージック。駄洒落小話。写真と読書感想がメインのブログです。

一番近い釣り堀まで、往復の電車賃740円+税かかる。

100円の撒き餌で釣れるので、時々利用する。

ブック・オフという名の釣り堀だ。

貴重本や専門書は落ちてないが、評判のいいエンターテインメント本なら、面白いように釣れる。

昨日釣って来た7冊。










イメージ 1





吉田秋生「バナナフィッシュ」。


ブロ友さんから勧められたので探しに行ったのだ。

11冊+番外編1冊、計12冊中7冊見つかった。

残り5冊、揃ってから読むことにする。


萩尾望都も2冊釣り上げたが、SFじゃなく、少女漫画の系譜だったのでキャッチ・アンド・リリースした。












じゃあ今日は何もなしか~ってわけにもいくまい。



坂口安吾。


いまじゃあ誰も求めないが、ボクが学生の頃まで、初版本の収集というのは魅力的な趣味だったのだ。

だから、このブログでも安吾の初版本は何冊か紹介している。


ボクがブログをはじめた頃は、洋楽カテゴリーでは、オリジナル盤コレクターの勢いが盛んだった。

近頃はあまり見かけなくなったので、下火になったのかな??


コレクションも時代によって流行り廃りがあるようだ。





さてさて、その安吾だが、「戦後無頼派作家」の1人として知ったので、若い頃「無頼派」に憧れるきっかけになったのだ。

しかし、こんなレッテルは安吾の素晴らしさを見失わせる結果にしかならない。



安吾ほど、女性心理の機微に通じている男性作家も少ないと思うのだ。

そのせいか、安吾に救われた、と心酔していた女性ブロガーさんもいた。

彼女の読解は、いつもボクには目から鱗だったんだけど、この5,6年、ブログから離れられたのが惜しい。




講談社文芸文庫に「白痴・青鬼の褌を洗う女」(89年刊)があり、その中に「木々の精、谷の精」という短編(掌編)が収められている。

戦前、昭和14年に書かれた小説だが、正面切って取り上げた評を見たことがない。

ボクはこの短編が大好きなので、誰か読み解いてボクを満足させて欲しいと思っている。




この世とは思えないくらい静謐な美しさをたたえた山奥の村があり、そこに半跏した弥勒像があって、不思議な微笑で見る者の心を捉えて離さないという。


弥勒像を所有する家の娘は不思議な娘で、ボクには彼女の心のありようが理解できないのだ。


縁談が持ち上がったとき、こんな美男子は生まれて初めて見た~と喜んで結婚を承諾したのに、祝言の1週間前、誰にも相談せずに断りの電話を入れてみたり、村の娘たちがどんなに美しいか、彼女たちが裸で水遊びしている場所に語り手(男性)を連れて行って自慢してみたり、病んだ少年の膿を吸いだしたり、そうかと思えば病んだ少年の姿が見えなくなり、人気のない沼のほとりで見つかったとき、「あの子死ぬつもりで沼を見つめていたんですわ。死んでしまえばよかったのに」と言い切ったり、聖と俗が混然一体となっていて、ボクは女性というものの不可解さに頭を抱え込むしかない。


弥勒菩薩の印象を「この仏像は悔恨とやつれを持っていないようだ。・・・直接深刻なものが微塵もない」と評していて、この短編のキーワードのように思われる。

実際、悩みも何もなさそうに見えるこの女性は、沼に身投げをしてしまうのだ。

そう言えば、女性を描くのが上手いパトリス・ルコント監督の「髪結いの亭主」でも、何の不満もなさそうに見えた奥さんが身投げをした。


娘の縁者で、語り手の友人の言葉、「山へ行ったら、例の君の愛人の弥勒の像に聴いてみたまえ。あれの語っていることが真相だね」


結局、人間の脆(もろ)さと、それの持つ妖しさということなのかもしれないが。

いやいや、男にとって女は永遠に謎、ということだろう。







イメージ 2




















こいうときはサイケがいい。

Vejtables.

60年代半ばのシスコ(正確には近くのミルブレイって街のようだが、大雑把にシスコでいいだろう)のバンドで、ローカル人気があった。

コーラス重視のフォークロック路線から、次第にハードなサイケ路線になり、 ボクは勿論後者の路線のほうが好きだ。

Hide Yourself。
















イメージ 3