20120401
macoです。
嘘、ついてますか?
今日はエイプリルフールですね。
一種のユーモアとして用いられる分にはおおいに歓迎ですが、
なかなかそこまで頭が回らない。
なので、
人を驚かせ楽しませるユーモアを持てる人は素敵だなと思います。
Count Basie - April in Paris
動画のトランぺッターはベイシー伯爵です。
...嘘です。
マイルス先生です。
お間違えなく。
嘘、ついてますか?
今日はエイプリルフールですね。
一種のユーモアとして用いられる分にはおおいに歓迎ですが、
なかなかそこまで頭が回らない。
なので、
人を驚かせ楽しませるユーモアを持てる人は素敵だなと思います。
Count Basie - April in Paris
動画のトランぺッターはベイシー伯爵です。
...嘘です。
マイルス先生です。
お間違えなく。
20120329
macoです。
ブログパーツというものに手を染めました。
当Blog右側にiPod風のブログパーツが見えますか?
そこから音楽が流れるようにしてみました。
まだ手を加えていく段階ではありますが、
(Playlistも一曲だけだし)
ぼちぼち気が向いたら曲目増やしたりしてきます。
ちなみにMIXPODというやつです。
http://www.mixpod.com/
よろしくおんしゃーす
ブログパーツというものに手を染めました。
当Blog右側にiPod風のブログパーツが見えますか?
そこから音楽が流れるようにしてみました。
まだ手を加えていく段階ではありますが、
(Playlistも一曲だけだし)
ぼちぼち気が向いたら曲目増やしたりしてきます。
ちなみにMIXPODというやつです。
http://www.mixpod.com/
よろしくおんしゃーす
「部室」~文学とか~
こんにちは。SHOWER ROOMのTAKASHIです。
3月28日、村上春樹さんの『1Q84』が新潮社からついに文庫化されますね。
まだ未読の私としてはこの日をどれほど待ち望んでいたことか。
3か月連続刊行で全6巻だそうです。村上さんの作品での文庫では一番巻数が多い。
これからじっくり楽しんでいこうと思っています。
文芸の世界で「文学」というのが衰退した、と嘆きの声がよく聞こえますけど私は全然そんなことはないと思っているクチです。
人間が文章を綴って物語を編み出すことをやめない限り「文学」というのはなくならないというのが私の考えです。それが紙の上の書籍であろうと、コンピューターの中やWEB上だろうとあまり関係がないと思います。
確かに書籍の方が「文学」っぽかったり、明治や大正の時代の小説の方が「文学」のイメージは強いですが、昨今のライトノベルやWEB小説だって立派な「文学」になりうると思います。
私は「文学」というのは現行するものではなく振り返るものだと思ってます。もともと「文学」というカテゴリー(?)は近代が生み出したものです。その時になって平安時代には『源氏物語』があり、鎌倉時代には『方丈記』があり室町時代には『太平記』があったというように、現行の人々が過去を発見するという形で述べられるものだと考えています。
平安時代の人間が「文学」を意識して清少納言の『枕草子』を読んでいたのかどうかはわかりませんし、江戸時代の人が井原西鶴の『好色一代男』を読んでいたのかはわかりません(たぶん意識してなかったと思う)。ですが、いずれも日本文学史を語る上では欠かせない文学作品として扱われています。
物語というのは癒しであるという立場を私は取ります。それはフロイトが精神病を治療する時に用いた方法のように。抑圧されたもの、外傷的な仕方で経験してしまったもの(トラウマ)を癒すために必要なものが物語というフィクション、幻想であり、私たちはそれなしでは生きてはいけない(だから私は本質的に嘘つき野郎です)。
私達が今、『源氏物語』や『好色一代男』や『舞姫』や『伊豆の踊子』を「文学」として重宝しているのは、それらが私達(日本人)の、トラウマによる疾患を癒してくれるからです(それが何かはわかりませんが。
勿論、現行の流行りの小説やWEB小説とかWEB日記(エッセイ?)が今を生きる我々の問題を癒してくれる可能性を否定するわけではありません。しかし現在の文学界の「賞」をもたらす権威や、需要と供給による市場の無時間モデルのみで「文学」を語ると重要なものを見落としてしまうような気がします。
もしかしたら、今の私達が下らない便所の落書きとして扱っているような書き物が、100年後200年後1000年後の日本人の癒しの物語、「文学」として扱われる可能性だってあるのです。
それでも昭和のある時期に「文学作品」としてある一定の現行の書き物が扱われたのは、いわゆる文豪達の「私には私にしか書けない何ものかがあるのではないか。そして私自身を癒す為にも私はそれを書かねばならない」というある種の使命感と、それを査定する評論家達の「私達は私達を癒す作品を見出さなければならない」という使命感が当時の社会に有効性をもっていたのだと思います。
現在そういった文豪と評論家達の関係が有効性を持っているかどうかは、私は判定しかねるけれど、最近は出版社とかの事情での市場的な「売れる」とか「売れない」とか、「需要」とか「供給」とかに偏りすぎているような気がする(飽くまで気がするだけね)。それ自体が特別悪いとは思わないけど、それに偏りすぎたりするのもある意味傲慢なことだと思う。
ただ現在はそういった癒しを求められるものが、文学全盛期よりも文学作品以外に沢山あるので(TV、映画、マンガ、ゲーム等)以前よりもスポットライトが当たりにくくなったということは言えると思います。
何に癒しを感じるか?というのがある種の共同体を形づける一つの見方でもあると思います(それが世代だったり、地域だったり、国だったり)。企業とかの戦略とかもあるだろうけど何かの文学作品が売れた場合、私達はその物語に何かの癒しを感じたと言えると思います。
私達がなんとなーく癒しを感じた、または癒しを感じるテクストが私が思う「文学作品」です。
村上春樹さんの作品が文学作品かどうか私にはわからないけれど、私はとても癒しを感じます。
『1Q84』楽しみですね。
3月28日、村上春樹さんの『1Q84』が新潮社からついに文庫化されますね。
まだ未読の私としてはこの日をどれほど待ち望んでいたことか。
3か月連続刊行で全6巻だそうです。村上さんの作品での文庫では一番巻数が多い。
これからじっくり楽しんでいこうと思っています。
文芸の世界で「文学」というのが衰退した、と嘆きの声がよく聞こえますけど私は全然そんなことはないと思っているクチです。
人間が文章を綴って物語を編み出すことをやめない限り「文学」というのはなくならないというのが私の考えです。それが紙の上の書籍であろうと、コンピューターの中やWEB上だろうとあまり関係がないと思います。
確かに書籍の方が「文学」っぽかったり、明治や大正の時代の小説の方が「文学」のイメージは強いですが、昨今のライトノベルやWEB小説だって立派な「文学」になりうると思います。
私は「文学」というのは現行するものではなく振り返るものだと思ってます。もともと「文学」というカテゴリー(?)は近代が生み出したものです。その時になって平安時代には『源氏物語』があり、鎌倉時代には『方丈記』があり室町時代には『太平記』があったというように、現行の人々が過去を発見するという形で述べられるものだと考えています。
平安時代の人間が「文学」を意識して清少納言の『枕草子』を読んでいたのかどうかはわかりませんし、江戸時代の人が井原西鶴の『好色一代男』を読んでいたのかはわかりません(たぶん意識してなかったと思う)。ですが、いずれも日本文学史を語る上では欠かせない文学作品として扱われています。
物語というのは癒しであるという立場を私は取ります。それはフロイトが精神病を治療する時に用いた方法のように。抑圧されたもの、外傷的な仕方で経験してしまったもの(トラウマ)を癒すために必要なものが物語というフィクション、幻想であり、私たちはそれなしでは生きてはいけない(だから私は本質的に嘘つき野郎です)。
私達が今、『源氏物語』や『好色一代男』や『舞姫』や『伊豆の踊子』を「文学」として重宝しているのは、それらが私達(日本人)の、トラウマによる疾患を癒してくれるからです(それが何かはわかりませんが。
勿論、現行の流行りの小説やWEB小説とかWEB日記(エッセイ?)が今を生きる我々の問題を癒してくれる可能性を否定するわけではありません。しかし現在の文学界の「賞」をもたらす権威や、需要と供給による市場の無時間モデルのみで「文学」を語ると重要なものを見落としてしまうような気がします。
もしかしたら、今の私達が下らない便所の落書きとして扱っているような書き物が、100年後200年後1000年後の日本人の癒しの物語、「文学」として扱われる可能性だってあるのです。
それでも昭和のある時期に「文学作品」としてある一定の現行の書き物が扱われたのは、いわゆる文豪達の「私には私にしか書けない何ものかがあるのではないか。そして私自身を癒す為にも私はそれを書かねばならない」というある種の使命感と、それを査定する評論家達の「私達は私達を癒す作品を見出さなければならない」という使命感が当時の社会に有効性をもっていたのだと思います。
現在そういった文豪と評論家達の関係が有効性を持っているかどうかは、私は判定しかねるけれど、最近は出版社とかの事情での市場的な「売れる」とか「売れない」とか、「需要」とか「供給」とかに偏りすぎているような気がする(飽くまで気がするだけね)。それ自体が特別悪いとは思わないけど、それに偏りすぎたりするのもある意味傲慢なことだと思う。
ただ現在はそういった癒しを求められるものが、文学全盛期よりも文学作品以外に沢山あるので(TV、映画、マンガ、ゲーム等)以前よりもスポットライトが当たりにくくなったということは言えると思います。
何に癒しを感じるか?というのがある種の共同体を形づける一つの見方でもあると思います(それが世代だったり、地域だったり、国だったり)。企業とかの戦略とかもあるだろうけど何かの文学作品が売れた場合、私達はその物語に何かの癒しを感じたと言えると思います。
私達がなんとなーく癒しを感じた、または癒しを感じるテクストが私が思う「文学作品」です。
村上春樹さんの作品が文学作品かどうか私にはわからないけれど、私はとても癒しを感じます。
『1Q84』楽しみですね。