「部室」~スラヴォイ・ジジェク~ | showerroomのブログ

「部室」~スラヴォイ・ジジェク~


みなさんこんにちは。SHOWER ROOMのTAKASHIです。

スラヴォイ・ジジェクの『ポストモダンの共産主義―はじめは悲劇として、二度目は笑劇として(ちくま新書、栗原百代訳)』をようやく読み終える。

一年以上前に買ってツンドク状態になってた本である。

スラヴォイ・ジジェクはラカン派精神分析家でマルクス主義者という、おそらく現在の思想家のなかで味方はほとんどいないというか、敵ばかりという状態で一部の識者からは大人気という孤高の人である。

かくいう私もジジェクの著書を本屋で見かけると思わず手を伸ばしてしまうクチである(『ラカンはこう読め!』はとっても大好き)。

今回のジジェクは(といっても三年くらい前だけど)リーマンショックに始まる世界金融危機に際してその後の世界の動きなどを分析し、コミュニズムのあらたな可能性を示すという割とベタな内容である。
タイトル(はじめは悲劇として~)はマルクスの『ブリュメール18日』からの引用である。ジジェクがマルクスの分析を参考するに当たって『資本論』や『ドイツイデオロギー』ではなく『ブリュメール18日』を選択したところに思わずニヤリ(『ブリュメール18日』は私がマルクスの著書の中で一番のお気に入り)。

第一章と第二章に分かれていて第一章は現状分析(といっても三年くらい前だけど)。第二章はコミュニズムの実践へという流れであるが、その分析の手腕はさすがというかとってもリーダブル。残念ながら第二章はなんとなく言いたいことは分かるんだけれどいまいち納得できない(でもたぶんこの納得できなささがむしろ大事なんだと思う)。

しかしこの本で一番グッと来たのは内容よりジジェクのスタンスである。

「真に偉大な哲学者を前に問われるべきは。この哲学者が何をまだ教えてくれるのか、彼の哲学にどのような意味があるかではなく、逆に、われわれのいる現状がその哲学者の目にはにどう映るか、この時代が彼の思想にはどう見えるか、なのである。(・・・)現代のありようをつかもうとして「ポストモダン社会」「リスク社会」「情報化社会」「脱工業化社会」等々、次から次へと新語をひねり出す人ほど、ほんとうに新しいことの輪郭を見逃してしまいがちなものだ。新しきものの真の新しさを捉える唯一の方法とは、古きものの「永遠の」レンズを通して世界を見ることだ。(本書P15―P16)」

古典的なマルクス主義者たちは現状をマルクス理論にあてはめて、あるいは、うまく当てはまらないことにも無理やり当てはめてきた。そのためマルクスを疑うことすら排撃され硬直化しマルクスの思想は衰退した。

残念ながらマルクスの理論は賞味期限切れである(たぶん)。

マルクスやラカンが偉大なのは、むしろ彼らが批判され続けてきたことにある。ある思想が批判されることは、けっしてその思想に死亡宣告が下されることではない。批判されるということはその思想をよみがえらせることである。ある思想への批判はその思想の研究者にとってむしろ喜ばしいことである。

ジジェクはおそらくそのことをよく理解している(私なぞが評するのは畏れ多いが)。
そのためジジェクは決して教条的な形でマルクスを絶対視しない。

マルクスもラカンも人間の欲望の形の現れ方について深い洞察を試みた。
今の世界がマルクスの目にどう映るか。ラカンは現状をどう分析するか。という極めてラディカルなスタンスにこそ私はジジェクに強く惹かれるのである。
師に仕えるにあたり、師が指し示す指先それ自体を見てはならない。弟子は師の指先が示すものを見なければならない。
ジジェクはラカンとマルクスという二人の師に対しての仕え方を通じてそのことを明瞭に教えてくれる。

とはいってもジジェクにも弱点はある。その最大の弱点はそのスタンスや理論の構築の仕方ではなく、彼の綴る文章の「面白さ」にあると思う。

第一章の分析などはある意味ブラックジョークをちりばめた世界認識本として、高級漫才でも見るかのような感覚で読むことができる(どちらかといえばこの感覚があるからこそリーダブルだと思える)。

要は「面白すぎて著者が本気なのかどうかわからない」という状態に陥ってしまうのだ。
本当は語り口に関して批判するのはフェアではないのだけれど(例えばジジェクの語り口がジジェクの思想を裏切っている等)・・・

まぁ結局は新刊が出たら読むんだけどね。面白いから。




最近のお気に入り「The Chemical Brothers "Swoon"」