「侵略者」
私は終戦の日を八面十二層の白塔が美しくそびえる古い歴史の都、満州国遼陽市で迎えた。誇らしく日の丸鉢巻きをきりきりとしめて、女子学徒勤労奉公隊として、お国のためと自負しながら、夏休みも返上して軍需工場で働いていた。そして正午、雑音混じりのラジオ放送を涙ながらに聞いた。
工場には、その国の女学生も動員されていた。休憩の時間は彼女たちとお互いに日本語、中国語を教えあって仲良くしていたし、同じ目的を持って頑張っていると聞かされもし、私たちもそう思っていた。
それが、彼女たちはこの放送を聞くと、鉢巻きをかなぐり捨て、荒々しく帰って行ったのにまず驚かされた。先生が「(敗戦は)敵の流すデマかもしれない」と言っていたのも空振りとわかり、不安な思いで帰る道すがら、「侵略者」と石を投げつけられたのには、息も止まるばかりに驚いた。
こうして一変したその日からは、引き揚げるまで、よくぞ生きて帰れたと、テレビドラマさながらの驚愕と苦難の明け暮れであった。
私たちはこの国に繁栄と富をもたらした日本人として、誇りと自信を持ってこの国の人々の範となるようにと、常々教えられていた。
それが突然、侵略者とののしられるのに傷つき、夜ごとに日本人街の一角を襲う集団での略奪におびえながら、「あんなにこの国のためにしてあげたのに、ひどいよね」などと友達と憤慨しあっていた。
まして自分が侵略者の子どもであるとは思いもよらないことで、聖戦というからには正しい戦争なのだと信じ切っていた。多感な少女期の、ほろ苦く、そして切なく、今思えば他愛ない私の戦争体験である。
いつの時代でも子どもたちにほどこされる教育の力とは、良くも悪くも大きな威力を持っているということを四十八回目の終戦の日を迎えて、改めて思い返している。
平和な日がこれからも永遠に続くことを願いながら。