【昭和100物語】その1 730 Days At College Hotel 第20話 | 昭和100物語(Rの雑記帳)

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私が生まれた昭和の時代の昔話を中心に、時には平成の話も
書いていきます。時系列やジャンルを問わず完成したもの
からアップしていきますので、まさに雑記帳ということに
なります。

 

第20話 第1学期ついに終了す! 

 

一体早かったのか遅かったのか、何が良かったのか悪かったのか、自分の中でも全く消化しきれていないまま、第1学期をとにかく乗り切った。

 

この学期が始まる前に学部長に要望したことを列挙すると、

 

        1. シラバス(学習指導要綱)の用意
        2. 廃墟と化している教室及び暗室の清掃

        3. 故障したまま放置されている水道、電気、エアコンの修理

        4. フィルム、印画紙、薬品、保存用冷蔵庫の購入

        5. 写真講座開始時から現在までの経緯説明

        6. 日本から協力隊員を招聘した背景説明

          (どのような展望と計画を持っているのか教えて欲しい)

        7. 学校での自分専用の部屋と机、椅子の用意

        8. 電気スタンドの用意

 

着任早々で状況がよく分からなかった上に 熱い(?)情熱 が私の心にあったとはいえ、半年が過ぎこの学校の置かれた状況やザンビアという国の現実をある程度知った今、こうして改めて眺めてみると私は何という恐ろしいほどの過大な期待を抱いていたのかと嘆息せざるを得ない。

 

これらの要望を二つ返事でホイホイと満たせる学校なら、わざわざ遠い日本から私たちを呼ぶ必要もなかったことだろう。今となれば己の考えの未熟さと準備不足を恥じるばかりだ。

 

結局実現したことは、隣の部屋にあった机と椅子を勝手に持ってきたことと、暗室内のガラクタの片づけと掃除を自分一人でやり遂げたことくらいだった。とにかく講義を始める準備が整っただけよしと考えることにした。

 

この国では気持ちの切り替えを上手にしないと結局自分も見失うことになり、自信とプライドを喪失し何もできなくなる。実際そんな隊員も何人か見てきた。

 

君に全て任せる、その真の意味とは… 

 

写真の講義と一口に言っても、範囲が広すぎるので何をどの位の期間で教えるのかという基本構想をまず打ち立てなければならなかったが、ここで早くも問題が生じた。

 

私にポンといとも気軽に手渡されたカリキュラムによれば、写真の講座はそもそも第2学年の1年間で終了すべきとある。ジャーナリズム学部全12科目の講義時間計3,260時間のわずか1.84%(60時間)しか与えられていないのだから、本気でやれば2ヶ月程で消化してしまうことになる。それを何とかごまかしながら1年間持つように引き延ばすことは可能だ。

 

では2年生のVF83は今年1年で写真を終了してもいいのかと尋ねると、来年も引き続いて教えてほしいとのこと。ならば同じことを繰り返して教えるわけにはいかないだろう。一体1年なのか2年なのか、それとも3年間教えるのか、それぞれにやり方は相当に違ってくる。もしカリキュラムが変更されたのならその中身を完全に把握する必要があると考えた私は、早速アブラハム学部長と面会して説明を求めた。しかし彼の説明ははなはだ説得力に欠けたものであり失望させられることになる。

 

「君はこの学部に講師として正式に派遣されたのだから、協力隊員であるとか雇われ外国人であるとかの区別は一切しない」。

ここまでは納得できた。

 

「この学部の講師たちは人手不足のため全員が週10時間以上の講義を担当している。そんな中、君だけが講義時間が極端に少ないのでは格好がつかない。偉い人がチェックに来た時私が説明に困ることになる」

と続ける。

 

このアブラハム部長のことを同僚の講師たちが陰で“イエスマン”と呼んでいたが、やっとその理由が私にも分かった。要するにカリキュラムなど最初から全く問題にもされていなかったという訳だ。

 

私が初めて彼に挨拶した赴任時、彼が言った 「写真の講座のことは全て君に任せたい。君の好きなようにやってもらって構わない」 という言葉の真意がやっと私でも分かった。彼にとっては体裁さえ何とか取繕えれば良かったのだろう、後のことは全て私に放り投げたということだ。

 

「いや自分は講義時間が長いとか短いとか文句を言いに来た訳ではない。将来この写真講座をどのようにして発展させたいのかという貴方自身の基本的な考えと説明を求めているだけだ」。

こう突っ込んでもよかったのだが、英語の出来ない新米講師が講義時間を減らしてほしいと泣きついてきたと思われるのも何だか癪なので、全く納得はしなかったがそれ以上言うことはその場では控えた。

 

それにこのアブラハム部長、当時隣国での職探しに懸命だったと後で聞いたので、エブリンホンの将来のことなど聞かれてもまともに答えられたかどうか怪しいものだ。

 

とにかく頼みの綱と思っていた部長に何一つ協力しようという気がなく、全て他人任せという態度だったので、フィリピン人、スリランカ人、パキスタン人の先輩講師たちの親身の助言指導がなかったら一体どうなっていたかと思うと空恐ろしくなってくる。

 

今回、同期隊員3名と自分の4名が初代派遣隊員としてこのエブリンホン・カレッジに配置されたが、学部や職種が全く違うこともあり情報交換もあまり役には立たず、協力し合ってという状態にはなかった。それぞれが抱えている問題も多く、こと学校に関しては楽しく話し合ったという記憶があまりない。

 

科学学部のSLT82も同じく、顕微鏡写真など私にはとても教えられない内容のシラバスを渡されたので、こんなことは設備や機器があってこその話でとてもこんな立派なことを教えることはできないと訴えると、「まあ、何でもいいから適当にやってくれ」という返事が返ってきた。黒板とチョークのみで週4時間写真技術を (適当に) 教えてくれという。これでも大学と言えるのだろうか? 

 

自分というより学生たちの方が気の毒に思えてくる。しかし今の自分の能力ではどうすることもできない。言いたいことは山ほどあったが、自分がある程度の実績を上げ、発言力がついてから改めて話し合うしかないという結論に達した。非常に不本意だが仕方がない。

 

教えることの難しさを痛感する

 

今回の一連の件で強く感じたことは、自分たちのように高等教育機関(?)に派遣される隊員には、専門技術はもとより教えるテクニックというものもそれに負けず劣らず求められているということだった。知識や技術を単に機械的に伝えるだけならノートを黙々と取らせれば済むが、生身の人間を相手にしている以上、その時々の状況に応じて臨機応変に講義を運営しなければならず、そうした体験や技術に乏しい私はしばしば立ち往生した。

 

やはり派遣前訓練時にそのトレーニングも集中的にすべきと感じる。訓練中は体当たり的、セルフOJT的にやっても何とかなるだろうという楽観的な気持ちがあったが、いざ現場で、必死に私から知識を吸収しようと頑張っている学生たちの真剣な姿を目の当たりにすると己の未熟さが歯がゆいし彼らに申し訳ないと感じる。

 

学期の後半から、それまでの理論中心の講義 (機材が何もないのだからそうせざるを得なかった!) から (私個人の機材を提供して) 実技主体に方針を切り替えたが、黒板とチョークで学ぶ写真というものが彼らにとっていかに難しく、かつ退屈なものであったか、態度や表情の劇的な変化から痛いほど伝わってきた。ただし、最初から私自身があまりに張り切りすぎて盛沢山過ぎる内容になってしまったことは、彼らの写真に対する知識や考え方のレベルに対して適切なものではなかったと反省している。

 

次学期はもっと自由で柔軟な発想で彼らの興味や関心を喚起し、いつも受け身ではなく自ら参加したくなるような楽しく意義ある講義が運営できるようさらに努力し写真の楽しさを伝えたい。

 (第21話に続く)