【本】庭の話(宇野常寛著)
宇野常寛と言えば、10年ほど前に行ったいわて若者文化祭で登壇していた印象で、当時はクラッピングなど塩対応だった印象だ。
今回の本で最も印象に残っているのは、弱者に手を差し伸べられるのは「共同体」ではないと言い切っているところで、このあたりの展開がなかなか面白い。
あと、美味しんぼより孤独のグルメの方が目の前の食に向き合っているというのが、孤食をする度に思い出すw
以下メモったこと。
somewhereな人々の大半は、ネジや歯車のような生に耐えるため、承認を求めてプラットフォーム上の相互評価のゲームをプレイする。
その低コストな承認の獲得の持つ中毒性で考える意志と力を失い、やがてゲームプレイを自己目的化するようになる。
その結果として彼らはAnywhereな人々に動員され、換金されていく。
このゲームにおいては、新しく問題を設定するインセンティブが、すでに広くシェアされた問題に回答するインセンティブよりも圧倒的に低い。
WEB2.0がもたらしたもの。たとえ発信する手段を得てもほとんどの人間には発信に値する能力などなく、プラットフォームで展開するのはプレイヤー同士の低コストな承認の交換でしかないという事実の可視化だった。
遺伝子主体の観点から自己解体への欲求もあるはず。
しかし、現在は自己保存の快楽中毒になり、自己解体を経由した快楽を忘れてないか?
庭は人間外の事物であふれている場所であり、同時にそこは人間によって切り出された場だ。
「第三風景」とは、農地でも森林でもない場所、たとえば人間に放置された荒れ地。
生態系が安定している森林や、農薬などがまかれた農地より、第三風景の方が生物多様性がある。
新しい植物が次から次へと現れる状態。
この第三風景の生物多様性を維持しながら、緑豊かな空間を人為的に構築し、それを維持すること。「できるだけ合わせて、なるべく逆らわない」(つまり、合わせないものもあるし、逆らうものもある)クレマンの示す庭師の知恵。
Web2.0の作り変えるサイバースペースが、無条件で多様な発信の場になると信じていた今世紀初頭のシリコンバレーの楽観的な技術主義者たちより、クレマンという庭師はありのままであることの限界を知っていた。
エマ・マリスの「多自然ガーデン」も同様の考え
岸由二らは、1980年代からこのことを三浦半島の小網代の森で実践している。
我々の社会も同じように多様性のある「庭」にするにば良いのか。
庭の条件
どうすれば良いのか。
庭の条件
①「庭」とは人間が人間外の事物とのコミュニケーションを取るための場であること
②「庭」はその人間外の事物同士がコミュニケーションを取り、外部に開かれた生態系を構築している場であること
③人間がその生態系に関与できること、しかし、完全に支配することはできないこと。
コレクティフ
構成員である個々人が、自分の独自性を保ちながらしかも全体に関わっていて、全体の動きに無理に従わされているということが無い状態。
サルトルが否定的に捉えた概念をジャン・ウリが肯定的に見直したもの。
例えば、バス停で待っている人達など。
このほんのちょっとしたことの集積が日常。
それも、一度人間外の事物を経由して他の人間に触れることが重要。利用者の主な対話の対象は事物であり、その結果「たまたま」人間間の、コミュニケーションが発生している。そのことで、グループではなくコレクティフが存在する
その事物の条件は何か
工業製品ではなく名もなき職人の手仕事によって作られた民藝。これを使い続けることで自分の手に馴染む時「インティマシー(いとおしさ)」を感じることがある。
インティマシーを感じるもの
・人間と世界との関係が視覚的、触覚的に表れているもの(なので、工業製品は対象外)
・制作した人間の自意識が感じられるものではない(なので美術品は対象外)
パターン・ランゲージ
クリストファー・アレグザンダーによる、建築と都市計画の理論。
いくつかのパターン(「座らる階段」「手近な緑」「つながった遊び場」など)を組み合わせて、建築物や都市を作り上げる。
井庭の考え
1980年代の消費社会→1990年代からの情報社会→現在の創造社会
つまり、「モノ」「コト」をつくることで、人間と世界が接続される社会が望ましい。
柳の無心の美
伝統の中で無名の職人達によって作られた物品は、近代的な自我のもたらす意図や作為とは無縁なため、自然の持つ美の延長に存在できる
アレグザンダーの無名の質
作り手の意図ではなく、単にあるプロセスから生成される表現の質。
井庭は無心の美と無名の質が同じとみなす。
パターン・ランゲージという知恵をシェアすることで、人間は特定の共同体に接続することなく、「無心の美」=「無名の質」を発揮する事物を制作できる。
パターン・ランゲージは建築以外にも、1990年代からコンピュータープログラムの領域に応用されるようになる。
Linuxなどオープンソースソフトウェア開発など、オープンなコミュニティ「共創ギルド」がインターネット上に公開されたパターン・ランゲージを管理することで実現できる。
こらが井庭による「創造社会」のビジョン
一方で、パターン・ランゲージにより創造が容易になっても大衆の事物制作参入は増えなさそう。
創造への欲望をどう駆り立てるか。
國分功一郎。消費は終わりがないので満足することがない。これが退屈。
退屈を解決するためには浪費する。
浪費のためには環世界を移動して、そこにとどまること。動物になること。
Instagramで注目を集めるための食べ歩きではなく、味そのものを受け止める能力が必要。
ただ、國分の想定した敵は消費社会で、今日の情報社会、つまり発信する快楽の虜になった人々によるポピュリズム運動を想定していない。
こらに対応するのが庭。
人間間のコミュニケーション(承認の交換)ではなく、事物とのコミュニケーションで自己の世界との関係を確認できる。
ここで問題になるのが動機づけ。事物を制作することを人間間で承認を交換するより、人間は強く欲望しない。
同人活動のように、対象となる事物を浪費して満足していない場合に「制作」に動機づけられることがある。
これは消費ではなく、事物そのものを徹底して受け止めた結果として発生する。
実は珍しい現象ではなく、どの分野でもあるレベルを超えた趣味人は多かれ少なかれある。
この浪費の失敗、変身には、非対称な一方向からのコミュニケーションが必要。決して実現してはならない。
インティマシーを感じる事物からの非対称な、一方向からのコミュニケーションの成立条件とは何か。
國分功一郎の「中動態の世界」。
中動態の世界は既に回復されている。
例えばテラスハウス問題。二十一世紀のグレートゲームのプレイヤーは、ビリー・バッドの登場人物達より圧倒的に自由。身体、感情、歴史から自由に投稿できる。
國分功一郎「責任の生成 中動態と当事者研究」。
加害者に何%かの被害者であることを問題にすることで、加害者に責任を自覚させる。
しかし、これが責任転嫁に利用されている。
技術的に、そして拙速に回復された中動態の世界が機能しなくなる時間を手に入れられる場所が「庭」。つまり、「庭」は中動態の世界が一時停止される場所でなくてはならない。
人間が事物と遭遇しインティマシーを感じ内面に事物の理想形が生じる。そして人間は現実の事物との落差に傷つく。この傷が人間を制作に動機づける。
この傷が回復されないのが大事。浪費=満足することは、この傷が回復された状態。この状態は個体ごとに異なるコナトゥス(外部からの刺激に対し自己を維持する力)を発揮している状態、つまり自由な状態。
一時的にもこのコナトゥスが発揮されない状態を発生させることを考える。
コナトゥスが発揮されるには、行為の背景にある因果関係に自覚的であるべき。逆に「庭」では背景の因果関係が隠ぺいされたまま、事物に襲撃されなくてはならない。
そこでは事物が一方的に人間へコミュニケーションを取り、かつ人間がその影響を不可逆に受けることが求められる。その受動性は人間に回復不能な傷を与え、その傷で人間が制作に動機付けられる。この段階で受動性は能動性に反転している。
中動態の世界を一時停止して、能動態、受動態で記述される不自由な世界を、審判する言葉を機能させること、これが庭的な場所には必要。
その日その場所で彼/彼女がその事物から襲撃を受ける。それは広告に誘導された結果かもしれないし、行政の執り行った施策の成果かもしれない。その傷から回復せず不可逆な変化を与えられたことを彼/彼女は受動的に運命として感じるはず。
回復を阻止する、コナトゥスを阻害するためにはどうすればよいか。ケアの逆を行う。
共同体の内部での承認により回復がある。そうだとすれば庭には共同体があってはならない。
例えば、商店主と客、客同士の育む共同体。
これらは再現性がなく、社交的な性格が前提になっているので、肯定的な可能性を見いだしにくい。
前提として、共同体とは強者が得をするシステムになっている。
ジェレミー・リフキン「限界費用ゼロ社会」
再生エネルギーと情報技術の進化は、商品やサービスをひとつ追加で生み出すコストが限りなくゼロに近づく。物質的に豊かになり、人々は共感を求めるようになる。目的は利潤ではぬく価値観を実現するため力を合わせるようになる。
しかし、この共感を媒介に作られる集団は息苦しく人を愚かにする。その愚かさを情報技術が最大限に支援する。
共同体の周辺にはいちされ、時に迫害され、人間感家が構築しづらい人のことが考えられていない。メイツ星人にあるように、過去に何があろうと百円を商店に持っていけば百円の醤油が買える社会こそ正義。
共同体は内部と外部を隔てることで成立する。それが文脈の共有。もっとも頻繁に用いられる文脈が敵の設定。
加害とその黙認の後ろめたさを共有することで文脈が生まれ、メンバーシップが確認される。
多くの人はプラットフォームに共同体で対抗するべきと考えるが、それは間違い。
プラットフォームはむしろ共同体と親和的。
人類はこれまでより圧倒的に簡単に敵を名指しして共同体を形成することができるようになった。そして新しい敵を設定し直し続けることで、その共同体は持続し続ける。
そのためのコミュニケーションの基礎をプラットフォームは提供している。
例えば、Qアノンをはじめとする陰謀論的な共同体とYouTubeやTwitterといったプラットフォームとの関係を考えれば一目瞭然。
人間同士のつながりを、承認の交換への欲望を滞在時間に、そして広告収入に変換するプラットフォームというシステムは、個人ではなくむしろ共同体のための場所。
敵を更新し続ける共同体と、人間の滞在時間を換金するプラットフォームは共販関係にあるりそしてプラットフォームにとどまっている人は、そこからどこにも移動できないり
ではどうするべきか?そこで「孤独」について考えてみる。
美味しんぼより孤独のグルメの方が目の前の食に向き合っている。
一方で孤独は公衆衛生の大きな課題として捉えられている。
ただ、時に孤独になることも必要。
秋葉原無差別殺人事件の加藤はナナメの関係の人物もいたが犯行に及んだ。彼は「誰かがいないとダメ」と思い過ぎていたのでは。
インターネット掲示板を通じて獲得した、ある意味濃密な人間関係に行き詰まり、それが暴走の大きな原因になっていた。
加藤にはひとりでいるからこそ得られる世界とのつながりが不足していたのでは。
孤独に世界に接続される回路こそが、世界には必要なのでは。
カフェでも図書館でも。
本当に必要なのは、仲間がいなくてもこの社会に居場所があると感じさせることでは。
社会的な関係が必要ないと言っているわけではない。適切に他者とコミュニケーションを取るためにこそ、人間は孤独に世界とつながるための回路が必要なのでは。
弱い人間にとって必要なのは、「ひとり」でいても寂しくない場所。
ひとりだからこそ、人間は純粋に事物と触れ合うことができる。
事物とのふれあいでは全てが自己責任になる。
そしてこの自己責任による人間と事物とのコミュニケーションに快楽を覚えた時、つまり「ひとりあそび」を覚えたとき人間は孤独であるからこそ開く扉を通じて世界に関与できる。
この「ひとりあそび」のコツは目的を持たないこと。
例えばランニングを趣味にした時、タイムを求めたりしないこと。純粋に走ることそのものの快楽を得ること。
他社との交流は暴力的に「ゲーム」を発生させ「目的」を付与してしまう。
食事はデートを盛り上げる演出になり、味がしなくなる。
人間を孤独にすることが、もっとも重要な「庭の条件」。
ただ、孤独は現在プラットフォームの支配に対して期待されているコモンズ(共有地)を公共空間として用いて対抗するものと逆行する。
しかし、ここではコモンズという答えは選ばない。
理由は、ふたつ。一つは既に述べたように民主的に選択されていない場所がプラットフォーム以上に求心力を持つことは難しいから。
もう一つは、現代におけるコモンズのガバナンスは共同体の自治が前提になっているから。
1つ目のこと。
私たちは国家から与えられたものより、自分たちが好き好み、選び取った場所に公共性を感じる。
大きな予算をかけた公園より、郊外のショッピングモールの方が公共的な場所として機能している。
2つ目のこと。
前提として、エリノア・オストロムの「コモンズの悲劇」を回避するための研究。
コモンズの悲劇とは、誰もが利用しうる資源が無秩序に利用されることにより、回復不可能な状態に陥ること。
なぜ悲劇なのか。それは、客観的に見ればその資源が持続可能な利用方法は明らかであるにかかわらず、その利用者たちの合意形成に失敗した結果として「囚人のジレンマ」が発生し、結果的に多くの利用者が資源を過剰利用してそれが枯渇してしまうから。
オストロムの前は解は2つだった。
1つ目は、あらゆる資源の存在する場所を分割し、私有地化することで環境劣化を回避する。
しかし、分割が難しいケースが多く使い物にならない。
2つ目は、国家により全て管理して、ルール違反したものを罰する。
しかし、コモンズを国有化すると、利用者がコモンズの維持に努力しなくなる。
これに対して、オストロムは消去法で推奨するのが、コモンズの利用者による自治。
しかし、これは相互監視など人間の幸福を考えていない。が、コモンズの悲劇を回避する唯一の方法でもある。
そして、今日の情報社会を支配するこの「プラットフォーム」こそが「コモンズ」の進化系であることをオストロムの研究は示している。
庭の条件を以下としてきた。
・人間と事物がコミュニケーションを取る場所であること
・事物たちの生態系が豊かに存在していること
・人間はその場所に関与できるが支配できないこと。
・事物の側から人間にコミュニケーションが取られること。
・そのコミュニケーションが人間を不可逆に変身させること。
・人間を孤独にすること。
表現されているのは、コモンズという共同体のための場所ではなく、あくまで私的な場所が公的に開かれたものでなくてはならない。
このような場所は実空間ではどんな場所か。
例えば銭湯。
銭湯は「よく知らないけど身近な他者」が「ありのままの姿」で存在している。その顔や体形は千差万別で、理想の美しさばかり情報として摂取しているだけでは自己否定しかできない自分を受容してくれる。「自分もこのままでいいのかも」とホッとできる。
共同体は弱者を救済はしない。必要なのは生活の一部となり、程よく気にされない場所。
サウナではととのうことを求める。しかし、銭湯は何もないための、自己肯定などどうでもよくなることによる弛緩した「ととのわない」快楽の獲得。
「何かをできるようになる」ことは間違いなく素晴らしい。
しかし、「何者かにならなくてはならない」「何かをできるようにならなくてはならない」といったオブセッションから解放されることも大事。
銭湯が素晴らしいと言いたいのではなく、共同体が生成しない銭湯的なアプローチこそ、プラットフォームのもたらすゲームから離脱するために有効だと言いたい。
人間は何者でもない裸の存在として肯定、いや肯定未満の許容こそを必要としているのでは。
都市には銭湯的な場所が必要だ。そうした場所が担っているものを「公共」と呼ぶべきだ。
公共性と共同性は違う。共同性は「自分たち」の価値を守り後世に伝える。
しかし、公共性は複数の共同性が共存できる場所でなくてはならない。
公共的であるということは、それが「誰であるか」を問わないこと。
ゴミ捨てなど都市の静脈部分(嫌でもやらなければならないこと)へのアプローチ。
地元のカフェの常連や地域の祭りへの参加は難しくても、ゴミは出す。鎌倉市ではこのゴミ出しをゲーミフィケーションを施し、分別ゴミの再利用を見える化している。
そうすることで、共同体を経由することなく個人のまま社会に関われることを実感できる。
銭湯的な場所も喫茶ランドリーもこれに近いはず。
柄谷行人は、文脈を共有しない相手とのコミュニケーションを「交通」と呼び、交通が発生し続けるのを「都市」、文脈を共有する者同士のコミュニケーションが反復され共同体が固定化する場所を「村落」と表現。
今日において、人間は情報技術に支援された村落的な相互監視を自ら再召喚し、都市の自由を手放しつつある。
柄谷は都市的な共同体の場を「町(town)」とし、「交通空間」としての「都市(city)」と区別する。
今必要なのは「都市」的な空間を、どう今日の情報社会に「実装」するかということ。
私達が目にしている社会の分断とは、共同体の氾濫であり、都市的な交通空間を持たない村落の集合体、グローバルビレッジだ。
SNSのプラットフォームは、個人をベースにした他者間のコミュニケーションが成立する都市的な場所(交通空間)を、圧倒的に速い文脈生成力で消滅させている。これをどう回復するか。
回復すべきは共同体ではなく、共同幻想から切り離された「個人」や、「交通空間」だ。
庭の条件は一つの場所で全てを満たす必要はない。むしろいくつかの機能を持つ場所の複合体としての都市があり、その中にどれだけ庭の条件をある程度満たす場所を作ることができるか。
この庭たちのネットワークの作る交通空間は一時的に人間を共同性から解放し、公共性に接続させる。しけし、プラットフォームの力によりその多くは一定の期間で解体され、ふたたび共同体に取り込まれていくだろう。だからこそ、私たちは庭を絶えることなく作り続けなければいけない。
実は庭の条件を全て満たす社会的な大状況はすでにある。戦争だ。
戦争は人間が人間外の事物とコミュニケーションを取る場所を提供する。たとえば戦場で兵士が敵兵に銃を向ける時、それを人間ではなく的として見ることにより発砲が容易になる。
戦争の機械化により、マシンガンも毒ガスも原子爆弾も、敵兵や敵国の兵士といった現象を機械的に排除している。
同時に、人間の顔を失った敵兵や爆撃機、テロリストから無差別な攻撃を受けるという、事物からのアプローチを受ける。
その事物たちは非常に豊かな生態系を獲得している。兵器のスペックとその運用、陸海空それぞれのメカニズムと戦術、戦略とその背景をなす政治的なイシュー、これらの戦争にまつわる事物の生態系は、私達人間をひきつけてやまない。
特に総力戦以降の戦争は、国民国家を単位とした人間社会全体を包み込む生態系を可視化した。
だからこそ、人間は戦争について語り始めると途端に饒舌になる。
また、戦争という状況に関与できるがコントロールできない。
戦争とは究極の「庭」である。全ての人間の真の恋人になりうる。
そして戦争は、人間のあまり自覚されないが最も強い欲望を強く実現する。恐らく、承認の獲得に唯一対抗できる根源的な欲望。
つまり、自己と無関係に世界が変化していくこと、そしてそれを実感できること、つまり世界が変わると信じられること。
戦争はこの「庭」の最後の、究極の条件を満たす。
ありふれた、やっかいな欲望。つまり、自己は何もすることはなく、他の誰かから何者かであることを認められることもなく、ただ存在しているだけで世界の変化に飲み込まれること。
「戦争と一人の女」の女が欲すること。
恐らくここに、プラットフォームの支配を相対化するための最大の鍵が隠されている。それは今日において、結果的に忘却されている欲望にほかならないからだ。
プラットフォームが実現を容易にした何者か「である」こと、自己実現「する」という2つの欲望ではない、第三の欲望を我々は忘れようとしている。
社会のあちこちに「庭」的な場所を設けることで、人間を一時的には「何者でもない」存在にすることはできる。
しかし、それだけでプラットフォームに対抗できるわけではない。
それには、庭に訪れる人間の活動を変える必要もある。
「する」ことは社会的な評価でanywhereな人々の、「である」ことは共同体内部の承認でsomewhereな人々のアイデンティティと結びつく。
弱者に手を差し伸べられるのは、人間関係を築いていればパンを買える「共同体」ではなく、貨幣をもっていけばどこの誰でもパンが買える「社会」である。
そのため、今日における個人のアイデンティティ問題は、承認ではなく評価に足場をおくことに「とりあえず」仮定せざるを得ない。
これからの社会は承認のゆりかごを充実させるか、評価のハードルを下げるかの2択になる。
左右の共同体主義者は前者を構想する。本書では後者をベースとする。
anywhereな「どこでも」生きていけるスタイルをどれだけ「ありふれた」「なんでもない」ものにするかなのだ。
最終的な目標は、「する」ことを市場の評価から切り離すこと。
第三の回路を「庭」ではなく人間の活動として設けることがゴール。
一つの事例が、柴沼俊一の「アグリゲーター」という概念。
アグリゲーターの仕事は、短期間に社内外の多様な能力を集め、掛け合わせて徹底的に差別化した商品らサービスを市場に負けないスピードで作り上げることだと定義している。
somewhereな人々が意識を高く持って強く自立するのではなく、多方面の社会関係にかかわり社会的、経済的にリスクヘッジしながら弱く自立していくモデル。
アグリゲーターの機能が環境に備わった時、はじめてプラットフォームを内破する新しい場所を手に入れられる。
文化人類学者の小川さやか。「チョンキンマンションのボスは知っている」で知られる。
タンザニアの出稼ぎ商人ネットワーク。彼らの中で働くことは生存の手段で、自己実現とは結びつかない。
シリコンバレー的なアントレプレナーシップでは、自ら手がけた仕事を通じて世界を変えようとしている。
タンザニアのインフォーマルマーケットの商人たちは、単に人生を謳歌するための手段(自由を保証する金銭の獲得)としての事業を営む。
事業はリスクの分散がされ、内容は何でも良い。
セーフティネットとして機能するのが贈与の仕組み。
ついでに知り合った人を可能な範囲で援助する。借りを返さなくて良いが、余力あるメンバが他のメンバを可能な範囲で援助する習慣がある。
自分がついでに行う利他的行為が、将来的に他の誰かが自分を助ける動機になることを期待される。が、ついでにやっているので、つながらなくても構わない。この鷹揚に構えることをよしとする文化が、結果的に強靭なネットワークを形成し、セーフティネットとして機能する。
そして、この贈与のネットワークは、既存のプラットフォーム組み合わせて成り立っている。
仮想のプラットフォーム「TRUST」という共同体はあるが、この共同体のメンバなら信用できるとは考えない。普段のプラットフォーム上の振る舞いから、この程度の利益のために騙すことはないだろうという判断材料が文脈の共有によって与えられる。その結果として発生する(こともある)信頼が取引を可能にしている。
UberやAirbnbなどではユーザーから常に評価され、その評価は蓄積する。
しかし、「TRUST」のような共同体ないの文脈に依存したプラットフォームの部分的な利用では、評価は明示されず、そのときどきの状況が総合的に検討され新参者や過去に失敗しま人間にも機会が与えられることがある。
つまり、共同体内の承認と、セーフティネットはの接続権を結びつけないためにプラットフォームが利用されている。プラットフォームには依存せず、一部をハックしているだけ。
弱い自立により評価のハードルを下げること、これが「である」ことでも「する」ことでもない道への入口になる。
アグリゲーターによりなかば解体された株式会社のメンバ、あるいへタンザニアの出稼ぎ商人たちは、市場を通じて自立しているがグローバル資本主義のゲームからはなかば降りることができる。
彼らは共同体から自立し、そこから得られる承認に支えられていないが、かといって市場からの評価を直接的にアイデンティティに結びつけてもいない。前者は自己実現よりも自分たちのプロジェクトが実現することそのものに、後者は自分たちの暮らしが楽しく彩られることに、それぞれ主眼が置かれやすい環境を作り出す。
吉本隆明
共同幻想(政治的イデオロギー)からの自立の根拠を対幻想(戦後中流的な家族形成)に求めた。
しかし、対幻想に依拠するようになってしまった。
その後、自立の次として消費社会という自己幻想を肯定している。
しかし、現代ではそれが当たり前になり、更に情報社会では「モノ」より「コト」に価値が置かれるようになってしまった。
情報社会だからこそ「消費」を用いた自立に挑戦しているのが糸井重里。
モノの消費を再起動するため、物語を付与することで付加価値を与えたモノを販売すること。
この時、糸井は「内容」ではなく「語り口」を優先する。
どう語るかを優先すると、人間に負の感情を与えるコミュニケーションは選ばれなくなる。特に「正しさ」を根拠に何かを否定することは人間の思考を強い力で縛るため選ばれなくなる。
だが、世界には確実に悪や不公正に対して声を上げる必要が生まれる場合がある。この声を語り口の優先は事前に摘み取ってしまう。
「正しさ」を語ることそのものを避けてしまった時、人間は世界に対して無抵抗になる。理不尽や不公正に対して言葉を失う。
たしかに糸井の語り口に基準を置くやり方はトップダウンのイデオロギーの解毒には有効かもしれない。しかし、ボトムアップの「空気」の解毒にはどうだろうか。「空気」を読んで「余計なこと」を口にしないという糸井的な語り口優先の態度こそが「空気」の支配を生んでいないか。
ほぼ日のキャッチフレーズ「ゴキゲンを創造する中くらいのメディア」。ゴキゲンと中くらいを保つために、共同体の隅で虐げられている人間が空気を読まず正しさを真剣に訴えることを、糸井は結果的に否定してしまう。
この語り口が、戦後日本を支配した政治的なものから距離を置くことが成熟だと考える文化に、そして民主主義に対するニヒリズムに結びついている。
語り口を大切にすることで、私たちは正しさを解毒しながら用いることができる。しかし、それがある語り口を維持するために、ある方向の正しさを語ることを避けることに踏み込んだ時、人間は最も奴隷に近くなる。
共同幻想にも対幻想にも依存せず、共同体からの承認からも市場からの評価からも切断しうる自立の可能性を秘めた回路、それが制作。
第一段階
ただ受け止める主体として出発する。ラーメンがおいしいとか景色が美しいとか。
第二段階
その欲望が強くなり、「どうしても欲しいがまだ世界には存在しないもの」を求めて「制作」を始める。
この段階になると、承認からも評価からも欲望それるが、それらとは別のレベルでも事物そのものが求められる。
制作は一定の条件を満たせば承認や評価を経ずに世界との関係を構築する。一つも売れなくても存在しなかった事物が存在するようななるだけで、世界は確実に変わる。このことを実感することで、人間は孤独に、つまり共同性を介することなく世界に接続できる。
ハンナ・アーレントの示した、「労働」「制作」「行為」。
どうすれば「制作」を民主化してsomewhereな人々に拡大して分断を解消できるか。
「行為」と「労働」は、情報技術によりエンパワーメントされている。「制作」は相対的にそのエンパワーメントが弱い。
行為は、共同体の永続を前提に歴史的に個人の行為が記録されることで、市民のアイデンティティと直接的に結びついていた。しかし、今日では情報技術の支援を受けて、行為による共同体からの承認は安価に、即時的に手に入る。
労働は、かつては糧を得るための卑しい活動とされてきたが、資本主義によりその位置づけは大きく変化し、あらゆる職業に労働的な側面が与えられた。
制作した事物が永続的に世界を変えると信じられることによって制作は人間を支える。
しかし、今日において、制作したものが市場で売れる(つまり労働化する)か、制作に従事することが共同体から承認される(つまり行為化する)ことに比べ、制作そのものの世界に関与する手触りは感じづらい。
制作の快楽、自分が欲しいものを他の誰も作ってくれないので自分で作るしかない、という思いを実現した時の快楽は、他のものでは代替できない。
制作の快楽は覚えるハードルは高いが、中毒性がある。
制作のエンパワーメントとして、ここでは労働と行為との関係を再設定する。
労働から制作の快楽を知る回路はありふれた話であった。(窓を拭く労働がガラスの美しさを人間に覚えさせる。日々の炊事が料理の楽しさを、人間に覚えさせる。)
この回路を回復させるには一つの条件として「自分の仕事」にすること。制作した事物を通じて公共性に接続し、世界に関与する実感を取り戻す。
弱い自立により、自立した主体を獲得するモデルもある。
もう一つの条件は、再分配と暇。セーフティネットがないと弱い自立は生まれない。
情報技術により民主化された制作の与える世界との接続(の実感)によって、情報技術によりインスタントに摂取されることによって生じる行為の中毒性を抑制する。
その制作への動機づけは弱い自立によって解放された労働によって与えられる。
そして、労働に弱い自立をもたらすのは情報技術でアップデートされ、市民でも大衆でもなく人間そのものを対象にした行為である。
こうして三大活動の相互関係はアップデートされる。