神社をテーマに

発信してきた僕が、

 

新刊は

 

「聞き方」

 

がテーマだった。

 

同じ人間ですから、

 

【神社】と【聞き方】

 

共通する根っこの

テーマはある。

 

それは

 

【見えない世界の豊かさ、

豊穣さを感じる】

 

なんです。

 

たとえば前回のブログで

紹介した米長先生の動画を

例にとると、

 

当時、米長先生は

棋界トップのA級リーグに

26年在籍していたが、

成績が悪く、陥落の危機に

あった。

 

A級リーグから陥落すると、

名人への挑戦資格を失う。

 

つまり「トップ棋士」じゃ

なくなります。

 

非常にナーバスになる

時期のインタビューで

こう答えています。

 

米長

「勝つのも良し、

負けるのもまた良し。

 

どちらが幸せかは

わからないんで、

 

それは

 

お前さんはこういう

風に生きなさい

 

と、いう

天の啓示ってわけ

じゃないんですけどね。

 

どちらでも幸せな人生が

送れると僕は思っているん

ですね」

 

聞き手

「もし、これから

あと3戦ありますが、

そこで(A級から)陥落と

なった場合は

どうされますか?」

 

米長

「それはもう、、、

陥落したからというわけでは

無いですが、

 

将棋はやめます。

 

それは他の世界に行きなさい

という教えなんですね」

 

動画の1:43〜2:48です

 

↓↓

 

これは論理的には

おかしいんです。

 

「やめなくても

いいんじゃないですか?」

 

こう問うことも

できるでしょう。

 

A級陥落と、

他の世界に行きなさいは

必ずしも結びつかない。

 

ただ、

 

そこでいろいろ

問う、質問する、

 

つまり

 

「訊く」

 

ことは野暮なんですね。

 

訊くとは

尋問のようなもので、

聞き手が

 

「こう答えて欲しい」

「こうなって欲しい」

 

と自分の望む方向へ

話し手を誘導する

ための質問です。

 

ご本人の

解釈や美学に

対して、

 

訊くことは

野暮であり

敬意に欠ける。

 

美学というものは

明確に言語化しなくとも

いい部分であって、

 

ただその語られた

言葉の向こうに

 

「豊穣な世界」

 

が広がっているんだと

察する、感じさせる

ものがあればいい。

 

そこまで引き出せれば

聞き手としては十分で、

 

それ以上を引き出すのは

 

「聞きすぎ」

 

であり

 

「畏れを知らない」

 

と僕は解釈します。

 

先の動画のコメントで、

印象深いのがあった。

 

------

随分昔のことですが、

村山聖八段が亡くなった時、

米長さんが将棋雑誌に

書いた文章が忘れられません。

 

師匠(※八木注:森信雄氏)が

理事選に立候補した際、

村山聖が米長に会いたいと。

 

米長は、純な天才を

世俗の垢にまみれさせる

わけにはいかないとして、

 

「来なくていよ。

君の考えているとおりに

投票するから」

 

と村山に伝えたそうだ。

 

米長は優しい人だった。

------

 

僕もこのエピソードは

うっすら記憶にあるんですが、

 

これも論理的に考えたら

おかしいんです。

「純な天才を世俗の垢に

まみれさせるわけにはいかない」

 

これは正しいんでしょうか、

ってことです。

 

たぶん正しくないでしょう。

 

正しくないんですが、

僕自身は、こういう

正しくない判断が

できるようになりたいと

感じたものです。

 

つまり、シンパシー

を感じたんですね。

 

僕もたまに共感する(笑)

 

村山さんは

5才の頃から

難病にかかっており

 

29才でお亡くなりに

なりましたが、

 

とりわけ純朴な

いわば

 

「将棋の神」

 

があらわれている

人物だったので、

 

彼に政治をさせる

わけにはいかない。

 

清濁の濁はふさわしく

ない、他人が濁して

はいけない才能だと

感じたのではないの

でしょうか。

 

だから彼の望む通りにする。

 

僕ならそう感じる

だろうということです。

 

神社はその名の通り

神の社ですから、

そこに神を感じるわけですが、

 

人にも感じることはある。

 

だから

 

「神社」も「聞き方」も

 

僕がお伝えしていることは

同じことなんです。

 

【新刊11/11に発売しました】