「私は目醒めていますか?」

 

先日、そんな質問を受けました。

 

朝起きて目が覚めるの

目覚めではきっと無い

でしょう^^

 

じゃ何なのかというと、

特に意味の決まっていない

言葉ですね。

 

だから、

 

「目醒め、覚醒」

について発信する人により、

 

意味も微妙にあるいは大きく

変わってくるのでしょう。

 

僕自身の

 

「目醒め」の定義は、

主観が客観化すること、です。

 

精神世界の大御所

ケン・ウィルバーの本で読んだ、

精神的成長の定義そのまま。

 

これが一番しっくりきました。

 

例えば、

僕が2007年のGWに

川崎大師に3人でオジャマした

ときのこと。

 

レイドウレイキの

セミナー受講中に、

イレギュラーな事態が起きて、

 

師匠の青木先生から

受講生3人は

 

「川崎大師に行っておいで!」

 

と言われて参拝しました。

 

当時は、寺社仏閣への興味は

ほぼ無かったです。

 

初詣以外は、

大学院の近くにある

「金剱宮」

に参拝していたくらい。

 

で、川崎大師ですが、

純粋に観光気分で行った

ところ、あるお堂で

 

”レイキ”を感じた。

 

「え?ここにレイキある?!」

 

と一緒に行った人に

言うと、

 

「あ!ホントホント!!」

 

と少なくともお一人は

共感していました。

 

レイキを感じるって

主観です。

 

主観ですが、

同じことを別の人も

感じていたら、

もはや確信です。

 

この状態を

「間主観inter-subjective」

と言います。

 

「川崎大師のお堂に

レイキが存在する」

 

という個人の主観とも

妄想とも言えるものが、

 

他人の主観と

一致することで

「間主観」になり、

確信になった。

 

そして僕の中で

 

「神社仏閣には、

神様とも仏様とも

呼ばれる氣の存在する

場所が、少なくとも

一部にはある」

 

という客観が生まれた。

 

「神様は存在する」

 

僕の中でこのことは

個人の信念レベルを超えて、

誰が何と言おうと、

 

「絶対的な真実」

 

であり、客観です。

 

これ、目醒めだと

とらえています。

 

ある特定の

事柄に関して、

目醒めた。

 

だから、

 

「みんな何かしら

目醒めている」

 

と僕は認識しています。

 

逆に言うと、

 

「多くの事柄に関して

みんな目醒めていない」

 

とも言えますね。

 

みんな目醒めているし、

みんな目醒めていない。

 

僕が知らない政治や

経済、実業、科学、

あるいは

宗教とか精神世界とか、

いっぱいあります。

 

それらのことについて、

僕はほぼ全く目醒めて

はいないでしょう。

 

しかし、ごく一部の

知っていることに

関しては、

割と目醒めている。

 

細かくは違うにしても、

皆さんそんな状態に

思います。

 

目醒めている人と、

目醒めていない人の

2極化あるでしょう。

 

あるけれども、

それは

 

人はある事柄については

目醒めている側であり、

ある事柄については

目醒めていない側である

ということ。

 

だから僕自身の

スタンスは、

 

「少しでも多くのことに

目醒めていきたいですね」

 

と思っていますし、

 

同時に、

 

「でも世の中の多くの

ことには目醒めていない」

 

とも自覚している。

 

目醒めとは、

AさんとBさんを、

白と黒に分けるような

ものだとは思っていません。

 

AさんもBさんも

ある部分は白で

ある部分は黒で

 

だからこそ、

 

自分の持ち分・領分と

言えるような事については、

目醒めている自分で

ありたいなと思うのです☆

 

もし誰かに

 

「私は目醒めていますか?」

 

と質問を受けたら、

 

「目醒めていますよ。

みんな目醒めています」

 

とお答えします☆

 

P.S.

 

昨日から発売の

 

「ゆほびか11月号」

 

「魂を磨く技術」特集で

ご紹介いただきました!

 

 

陰陽五行と神社と

魂の成長について

書いています☆