以前、お寺さんがある部屋を借りようとして、でもその募集要項を見ると、「宗教お断り」と書いてありました。

まあ無理だろうなあと思いつつ、借りられますかね? と恐る恐る問い合わせると、「どうぞどうぞ!」と歓迎でした。

「お寺なのですけど、宗教お断りとありますが、大丈夫ですか?」

「いえいえ! お寺は宗教じゃありませんので!!」

なかなか複雑な気持ちだったようです。

もっとも日本人の宗教観とは、なかなかユニークで、

神様はいるかと問われれば、ある時はいると答え、ある時はいないと答える。ケースbyケース、非常に融通のきく認識のようです。

先の例も、お寺は宗教だけど宗教じゃない。

矛盾しているけど、ケースbyケースの良い例でした。

とはいえ、その存在意義を問われると、多くのひとには「?」となる。

お寺は、僧侶という伝道師が多数存在しています。なので、お寺のこと、仏教の存在意義は、僧侶が語ればいい。それがお仕事であり使命なのですから。

しかし神社となると、たとえば江戸時代でいえば、富士信仰も伊勢信仰も、「講」というコミュニティがあり、「御師」(おし)とよばれる伝道師もいたのですが、今はほぼいなくなりました。

神職さんは、神道の学者的な側面はありますが、広くお伝えする役割は、古来より担っていません。有名なお坊さんは多数いますが、有名な神職さんはいないですよね。

語ってもいいとは思うのですが、お立場があって慎重になるようです。

だから、僕のような人間も語る余地がある。

僕のような神職でも神道学者でも無い人間が話していることは、ひとりの人間としての、神道の信仰形態です。アンケート調査をして分析してとなると、アナリストとして語る面も出てきますけどね。

ひとりの人間としての神社への思いや関わり方をお話しすることで、昔日の御師の代わりを、何らか果たしているということでしょう。


神社の場合、存在意義を問われて、「?」でもいい。言葉では言えないけれども、でも何かあると「感じていれば」、それで基本は十分ともいえます。

でも、何も感じていないと言うのであれば、それこそ、参拝しなくなっていく。

仏教を解説する僧侶のような存在がいないのに、神道がここまで続いてきたのは、目に見えない何かを感じる感性が、わたしたちにあったからでしょう。

だからこそ、もし「感性がすりへる」なんて事態が起こってくると、なかなかピンチです。

「感性」をどうやしなうかは、いろいろなアプローチがありますが、

「感じること」を大事にしている人達と連携していくのも、僕にとってはまた意味があることです。

野性の感覚、スピリチュアルな感覚。直感にインスピレーション。言葉を超えた感覚です。

僕自身、それは今後もみがいていくつもりだし、神社参拝していると、おのずとみがかれていくのですが、それでも何かしらお伝えした方がいいのだろうな、というのは、

知識を知るだけでなく、知識を忘れるのも、大事だということ。

「無心に参拝する」というのが、なかなかできない。

ただ参拝していればいいのですが、その「ただ参拝する」ってのが、意外にできないということですね。

そこで、「なぜ無心に参拝するといいのか?」という理屈が必要になってきた。この理屈もおそらく、不要なのですが、過渡期として必要であろうと感じています。

無心になることをさまたげる「何か」を忘れるために。