先日オウム真理教の教祖や高弟たちが処刑されたというニュースがありました。

1995年3月、オウムの地下鉄サリン事件があったとき、僕は大学生でした。もちろん衝撃を受けたのと、事件後テレビで主立った幹部が多数テレビに出演していたのを覚えています。

事件への関与が明らかになり、逮捕者が次々に出るなかで、オウムの幹部諸氏は朝から晩までテレビに出演し、まるでスターでした。弁舌さわやかなJ氏には、追っかけもできたくらい。

沢山のマスコミの目の前で、幹部M氏が刺殺される事件が起こるなど、ショッキングなエピソードに事欠きませんでした。

きっと、視聴率がよく取れたのでしょう。

個人的にも、高校時代のクラスメイトが逮捕され、実家で契約していた新聞の1面に。当時のクラスメイトがバイト先にいたので、「見た?! 見た?!」ともちろん話題に。

あとから、「そういえば、(高校の宗教の授業で)あいつの友達、やけにオウム真理教にくわしかった」という話しもあり、当時から関心を持っていたのでしょう。

ある授業の中で、その逮捕された同級生の友達が、詳細にオウム関連の階層図を発表していた記憶が、うっすらあります。

そうした事件のショッキングな出来事以外にも、

「なぜ、この人達は信者に……?」

という内面の考察もされていました。

宗教に何かを求めるなら、お寺や神社という選択肢があります。

それについて、某幹部は、

「お寺はまちの風景でしかなかった」

と言葉をのこしています。

宗教とそもそも思われていないのでしょう。

まちの風景と思われてしまう感覚も、もちろんよくわかります。僕自身、15年前なら、単なる建物にしか見えてなかった。

でも今は、ただのまちの風景とは思っていません。心の拠り所・心のふるさとにもなりうるものだと感じています。

言葉で言い尽くせるものでは無いし、実際に足を運び身体で感じてわかることもある。

神社について、図らずもお伝えする立場になった今の自分です。

まちの風景を超える神社の魅力や意義について、今後もお伝えしていこうと、改めて思ったオウムのニュースでした。