昨日は8月15日。お盆の季節であり、日本にとっては第2次世界大戦の終戦記念日。昭和天皇の玉音放送が流れる1日でした。総理大臣による戦後70年談話も出されて、国内外、というより主に国内から様々な反応がありました。

総理大臣という存在は、個人では無く、多くの人の思いを入れる容れ物です。今回の談話も、とても総理個人で考えつくような内容では無く、様々な人々の意見・見方が広く含まれ、そしてそれらを組み合わせてひとつの物語があまれていました。

日本の見方をまとめるというのは、そんなに簡単な事では無く、それは平成7年の戦後50年談話においても同様であったように思います。時代が20年経ち、また、より過去と未来に視点を広げた形で70年談話はまとめられていましたが、日本語のネイティブとして基本的な思いは同じだと受け取りました。

村山談話の時は、社会党の総理が出すという事に意味がありました。したがって村山総理個人の素朴な心情をより色濃く反映させたことは良い判断だったように思います。

今回は、安倍総理というザ・自民党の政治家ですから、個人の素朴な心情を出しては不合格で、国を代表する見方にする必要があります。したがって、これまで自民党・保守政治が築いてきた有識者や行政官とのネットワークを活かし、多くの知恵を練りに練り込んで、珠玉の文章をつくる必要がありました。合格のハードルがそれだけ高かったわけで、私レベルでは合否の判断ができかねます。

こうした談話は、ただ節目節目で出せば良いというものでは無く、発展的に継承していくことが肝要です。「あ、今年は出した方がいいのかな? 出してみようか」と浅い準備で出しても有害です。自分と同じ意見だから良い、違う意見だから悪い、という話しでは無く、どれだけ周到な準備をして、質の高いものに仕上げてきたかが、最も問われるべきことです。

<ニーバーの祈り>

「神よ、変えることのできるものについて、それを変えるだけの勇気をわれらに与えたまえ。

変えることのできないものについては、それを受けいれるだけの冷静さを与えたまえ。
そして、変えることのできるものと、変えることのできないものとを、識別する知恵を与えたまえ。」

次に出てくるのは100年談話でしょうか。このニーバーの祈りの精神で、基本は変えず、それでいて発展的な内容を発表していただけるよう、ひとりの国民として希望します。