「知的空気を目指すのがお釈迦様の小乗仏教の生き方。知的空気って良いと思わない?」週末の朝、某英語学校でもう70歳近いと思われる講師のおじさんが突然そんなことを話し始めました。明らかな脱線です^^;

その英語学校には無料見学会でおじゃましたのだけど、多分もう行く事は無い(^^;でも、良いと思いました。その”知的空気”っていう生き方の表現が。私自身、そんな人間になりたいとも思うのです。

お釈迦様の目指した生き方というのは、世のあらゆるしがらみから離れること。それをあるインドの人が”空気”にたとえたそう。ただ、これは私自身思うことですが、”しがらみから離れる”というのはなかなか難しいことです。

離れるにはまず”そんなしがらみに私はとらわれているのだ”と気づく必要があります。生きていくうちに自然と気がつくこともありますが、世の中は様々な仕組みが重層的に組み合わさって成立しており、また人間は無意識のうちに様々なしがらみにとらわれることがあります。

したがって、あらゆるしがらみに気がつくには、この世のことを勉強するために、学問が必要です。様々な実社会での経験も必要です。自分でうんうん唸り悩みながら深く考えることも必要です。時には静かに瞑想して己の精神の内側を探究することも必要です。

仏教は宗教では無く、哲学だと言われます。理由としては、認識論と呼ばれる哲学の一大分野があるのですが、仏教には唯識と呼ばれる独特の認識論が含まれています。また宗教はその特色として「神と天国」が存在します。しかし仏教にはそのどちらもありません。したがって仏教は宗教では無い、哲学だと言われるのです。

仏教は宗教では無い、ということを改めて思い出して、色々考えている内に、浄土真宗に対する認識が非常にクリアになりました。私はかねてから疑問に思っていたことがありまして、それは浄土真宗(一向宗)が親鸞の死後、国内で大量に戦争を繰り返したこと。室町戦国時代の大規模な一向一揆は歴史でも習うところです。

仏教はキリスト教やイスラム教と異なり、いわゆる大規模な宗教戦争は起こしてきませんでした。しかし国内に限定される話とは言え、浄土真宗は例外なんですよ。それで、どうしてかなー?と思っていたのですが、あぁ浄土真宗は宗教だったからかと腑に落ちました。浄土真宗には神と天国があるのです。神が阿弥陀如来であり、天国が(極楽)浄土であり。

天国(浄土)の存在を設定するということは、逆に言えば地獄(苦界)の存在も設定することになります。”本当”があれば”嘘”があるのと同じですね。もし本当のことしか無ければ、本当という概念は存在しないのです。あなたを信じているということは、あなたを疑っているということなのです。本当に信じていれば、信じているいないということが全く思い浮かばないですから。

そしてその地獄がどこに存在するかというと、浄土真宗ではこの世です。ですから、早くこの世を離れて浄土に行きたい!→死を恐れない→(宗教的な大義のためならば)命の奪い合いもできる、となります。

鎌倉時代初期までは、仏教の僧とは日本で最高峰のインテリ層、知的エリートでした。仏教とは膨大な知識に裏打ちされた正に最先端哲学だったわけですが、哲学のままでは大衆に広めることはできません。余程の知識見識と深く考える力が必要だからです。仏教をあまねく広めるためには宗教化、すなわち神(阿弥陀さま)と天国(浄土)の設定がどうしても必要だったのでしょう。

神と天国を設定すれば、深く考える必要は無くなります。神を信じれば、神が天国に救ってくださるからです。南無阿弥陀仏と唱えれば、極楽浄土に行けると。仏教の宗教化です。釈迦の説いた仏教が決定的に変質した、当時盛んに言われていた「末法の世」にふさわしい現象であり進化だったといえるでしょう。