去年、祈りの被曝ヒーリング勉強会で、”祈り”という手段を用いたヒーリングを習得する経験を持ちました。”祈り”によるヒーリングというのは、思い起こせばそれまでにも経験したことがありました。神道の世界でよく知られる大祓詞によるヒーリングです。もっと身近な例でいえば、神社仏閣の参拝は正に祈りです。


大祓詞によるヒーリングは、祓いとか浄化という用語を使う方が感覚的には適切であるように思えます。またヒーリングの対象も、人では無く、土地や空間です。


今日の論題は、こうした”祈り”と、臼井レイキや発展系レイキなどヒーラーがエネルギーの”パイプ(通路)”になる形態のヒーリングとの相違です。


端的にいえば、祈りによるヒーリングでは、ヒーラー(祈り手)はパイプ(通路)になりません。ヒーラーを介さずに、ヒーリング(祈り)対象にエネルギーが流れてゆきます。また、先程、大祓詞による祈りは、土地や空間のヒーリングに使うと申し上げましたが、私自身の経験だと、祈りは、対人にも使えますが、国や星やレイラインなど、大きな存在に使うことが向いていると感じます。


レイラインを司るのは、パワースポットとも呼ばれるような土地ですが、土地にはそれぞれの土地神とも地霊とも、あるいはお祀りしているご祭神とも呼ばれる存在がいます。祈りとは、こうした目に見えない存在に対して、パワーを発動してもらうようお願いする行為です。


目に見えない存在というと、何か幽霊のようなものを思い浮かべるかもしれませんが、実際はシステムのようなものです。図書管理システムであれば、検索ボタンを押すと、書籍データがズラズラ出て来ます。祈りとは、こうした検索ボタンを押す行為に似ています。


ボタンを押すという行為はしたけれども、書籍データを検索する力は、コンピューターが発揮しています。ボタンを押した後、人間はただ黙って、結果が返ってくるのを待つだけです。


レイキなど、hands on healing(手当療法、ハンドヒーリング)に属するヒーリングは、ヒーラーのパイプ(通路)の容量という制約条件が出て来ます。パイプとは、道路のようなものでして、道路が広ければ、流れる交通量、つまりエネルギー量も多くなります。また幾ら広いパイプでも、ゴミや詰まりがあれば、流れるエネルギー量も少なくなります。


つまりヒーラーたるもの、パイプはいつもキレイにして、かつ出来れば路を拡張したいわけですね。


祈りの場合、エネルギーのパイプにならないわけですから、容量の制約条件が無くなります。パイプの詰まりも関係無くなります。このことは、ヒーラーとして能力トレーニングしているか否かは、関係が無くなることを意味します。ただし「無心になる」という態度の部分が大切なのは共通しています。


祈りのポイントは、想いの純粋さです。個人の人生経験に基づく負の感情をからめた詞を発すると、それは呪詛になってしまいます(遠隔ヒーリングでも同じですね)。


なので大祓詞や、一般的な神社参拝で使う「祓いたまえ、清めたまえ、神ながら、守りたまえ、幸へたまえ」など、個人的感情をからめない祈りの言葉を使うのが無難です。あるいはシンプルに、物事が実現した状態をイメージします。それで十分、エネルギーシステムは発動します。


神社参拝客を観察していると、ご利益信仰的なお願い事をしても、エネルギーシステムは発動しない傾向があります。


結局、祈りとは、人間を含めた自然を浄化するエネルギーシステムを発動させるスイッチを押す行為なのかなと感じております。


個人をヒーリングのクライアントに見立てて祈りを捧げた場合、クライアントが神(エネルギーシステム)の役割を果たすことになります。参拝客が神社に祈るのと構造は同じですからね^^