「私の将来の夢は○○です!」


何とも罪作りな言葉を、社会は教えてしまった。若者に夢を語らせようと、社会が大いに促しだしたのは、30年前くらいからなのだろうか?夢を持っている人は、(社会的に見て)望ましい人という空気が醸成されるようになった。


これは何を意味していたのか。社会からのメッセージはこうだ。


「お前ら、上を目指せ」と。もっと堅苦しい言葉でいえば、「社会階層の上方移動を目指しなさい」ということだ。青少年は、期せずして皆、大競争時代に突入することとなった。このような文化(価値観)の変化が起こったことが、いわゆる「格差社会」なるものが出来た最大の要因である。


夢を語ることを促されなかった時代は、社会階層の上方移動を目指す必要は無かった。家の稼業を継げばそれで良かったのだ。あるいは親と同じような職業に就く。社会階層は、まじめにやればそのまま。怠惰に過ごせば下に落ちる。


ちょうど小泉政権が続いていた頃に、小泉政権への非難を含むメッセージとして、「日本は格差社会になった」ということがしきりに言われた。実際は、格差社会を示す統計的な数値(ジニ係数という)を見ると、格差は拡大していなかった。にも関わらず、マスメディアを通して、格差社会が拡大しているかのようなミスリードが続いた。実際に格差が拡大したのは、バブル経済華やかなりし頃であり、その後は特段の変化は無かったのだ。


しかし。


今にして思うと、格差の中身には大いなる変化が生じていた。


親と同じ社会階層にいれば良かった一昔前の時代の格差と、社会階層の上方移動が奨励される最近の格差を比較すると、たとえマクロな経済指標の数値では変化が無くとも、質的には決定的に違うことがある。一昔前の格差とは、社会階層の差だ。生まれ育ちで自分の将来が決まってしまう。たとえ階層が下だとしても、本人にはどうしようも無いことだし、またどうにかしろと言われることも無い。


だが夢を見ることが奨励される最近の格差とは、競争の結果、優れた結果を出せた者と出せなかった者の差だ。階層が下なのは、本人の能力不足あるいは努力不足と見られてしまう。親が金持ちだろうと貧乏だろうと、青少年はみな「そこそこの成功」を期待されるようになってしまった。


とはいえ、当たり前のことだが、そこそこの成功なるものが出来るのは、1割か2割。残りの人達は、期待外れ、ということになってしまう。たとえ親は「気にする必要ない」と思ったとしても、本人が気にしてしまう。


一昔前ならば、階層が下だからといって、負け組じゃないし無能だとも思われない。期待外れのレッテルを貼られるのは、道を踏み外して階層を転落してしまった、ごくごく一部の人達だけだった。普通にやってりゃ、期待通りの人生を過ごせたのだ。生まれた時から、現実が見えているのだから、自分に過剰な期待をすることも無いし、周りから過剰な期待をされることも無い。


勝ち組だの負け組だの言われるようになったのは、皮肉なことに、より平等な社会をこの国が目指そうした結果なのだ。社会階層がある程度固定化されていれば、勝ち組・負け組という概念は、そもそも存在しない。存在しているのは階層だけだ。


昔が良かった、と言う気は無い。良い悪いではなく、どんな社会を望むかという選択の問題だ。選択の結果、様々な事態が生じる。その時に、なぜそうなったのか的確に理解するために、本当に通説が正しいのか、あれこれ考えてしまうのだ。